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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1986年(昭和61年)1月11日建立。 合祀者139柱。(1)

軍艦球磨慰霊碑

碑文

軍艦球磨慰霊碑

軍艦球磨について

球磨
二等巡洋艦「球磨」新造時

「球磨」は、5500トン型巡洋艦の最初のグループである球磨型巡洋艦の1番艦である。 日露戦後の海軍国防方針は、アメリカを主敵とし、来攻するアメリカ艦隊を日本近海での迎撃決戦で撃破するというものであった。 このためには、主力艦隊前方で偵察や索敵、艦隊決戦時に水雷戦隊の嚮導にあたる巡洋艦を多数必要とした。  これに対応して、大正5年度計画で天龍型巡洋艦(常備排水量3,500トン、33ノット、14cm砲4門)2隻を建造した。 続く大正6年の八四艦隊計画では、天龍型と同型の3,500トン型巡洋艦6隻と7,200トン型巡洋艦3隻が計画されたが、3,500トン型は列強の巡洋艦に比して非力であると判断され、引き続く八六艦隊案の策定にあたっては計画の見直しを行い、全ての巡洋艦を5,500トン型に統一して建造することとした。 なお、7,200トン型巡洋艦への統一は建造費の問題があって、断念されたようである。

球磨型巡洋艦は天龍型の船型を拡大し、砲力と速力の強化を図ったもので14cm砲7門、53cm連装魚雷発射管4基、速力36ノットとされた。 主砲は列強巡洋艦の15.2cmに対して14cmを採用している。 これは、砲弾重量を当時の日本人の体格に合わせて軽いものにし、単位時間当たりの投射量と砲撃持続時間を確保したかったためである。 また、一号機雷とその敷設装置のため、艦後部の砲はシェルター甲板上に装備とされ、5,6番砲間の上甲板に機雷庫を設けた。 一号機雷は機雷4個を長さ100メートルの連繋索で繋いだもので、これを敵艦隊前方の海面に投下し、敵艦隊の漸減または混乱を狙ったものであった。 この一号機雷の連繋索を乗り切るために、艦首は水線部で30°の角度で後方に傾斜し、水面下では大きなカーブを描いて艦底に達する形状とされた。 さらに、建造中に水上偵察機1機の搭載が決定され、前述の機雷庫が水上偵察機の格納庫に変更された。 しかしながら、射出機が装備されなかったため、水上偵察機はデリックで海面に降ろして発進させなければならず、アメリカ巡洋艦オマハ型に比べて見劣りするものとなった。

1929〜30年(昭和4〜5年)の特別修理の際、「球磨」は煙突に雨水除け装置を取り付けた。 この装置は初期型のため煙突上部にふくらみがついた。 3本の煙突全部にふくらみがついたのは「球磨」のみであり、同艦の識別点となっている。 1932年(昭和7年)の後半に近代化改装が実施され、呉式二号射出機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。 1937年(昭和12年)〜1938年(昭和13年)の定期修理において、射出機を呉式二号三型に換装、8cm高角砲を撤去し、その跡に25mm連装機銃を装備した。 また、この頃までに主缶を重油専焼に改造している。 開戦後は、主として陸軍部隊や物件の輸送に従事していたが、1944年(昭和19年)1月11日、ペナン島西方でイギリス潜水艦「タリホー(Tally-ho)」の雷撃を受け沈没した。(2)

艦名

艦名は河川名。 球磨川は熊本県球磨郡水上村の銚子笠(1,489m)を源とし、九州山地を流下し、球磨盆地、人吉盆地のほぼ中央を経て、険しい山間から八代平野に出て八代海に注ぐ、幹川流路延長115km、流域面積1,880km2の河川である。  富士川、最上川とならび日本三大急流の一つに数えられている。(3)

要目(2)(4)(5)

完成時大改装後1932年
艦種二等巡洋艦
建造所佐世保海軍工廠
基準排水量 ※15,100トン
常備排水量 ※15,500トン
垂線間長152.40m
水線長158.53m
最大幅14.17m
水線最大幅14.17m
水線下最大幅
喫水4.80m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)10基
ロ号艦本式水管缶(石炭・重油混焼)2基
主機技本式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力90,000馬力
速力36.0ノット33.6ノット
燃料重油:1,260トン
石炭:350トン
重油:?
航続力14ノットで5,000浬
装甲水線64mm、甲板29mm、
兵装50口径三年式14cm単装砲7基
40口径三年式8cm単装高角砲2基
53cm六年式連装発射管4基
六年式魚雷16本
50口径三年式14cm単装砲7基
40口径三年式8cm単装高角砲2基
53cm六年式連装発射管4基
六年式魚雷16本
射出機呉式二号1基
航空機水上偵察機1機水上偵察機1機
乗員450名
その他1937年(昭和12年)〜1938年(昭和13年)の定期修理において、射出機を呉式二号三型に換装、8cm高角砲を撤去し、その跡に25mm連装機銃2基を装備。 また、この頃までに主缶を重油専焼に改造。

最終時の兵装は不明。 以下は推定。
50口径三年式14cm単装砲6基
九六式25mm3連装機銃2基
同連装機銃2基
この他に40口径八九式12.7cm連装高角砲1基を装備した可能性がある。

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(6)

年月日履歴
1918年(大正7年)8月29日佐世保海軍工廠において起工。
1919年(大正8年)7月14日進水。
1920年(大正9年)8月31日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1920年(大正9年)9月2日佐世保発。 ロシア領沿岸方面行動。
1920年(大正9年)9月7日小樽着。
1920年(大正9年)12月1日第二艦隊第四戦隊に編入。
1921年(大正10年)8月20日佐世保発。 旅順方面行動。
1921年(大正10年)9月2日呉着。
1921年(大正10年)12月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1922年(大正11年)6月19日佐世保発。 青島方面行動。
1922年(大正11年)7月4日鎮海着。
1922年(大正11年)8月31日舞鶴発。 ロシア領沿岸方面行動。
1922年(大正11年)9月10日小樽着。
1923年(大正12年)8月25日横須賀発。 中国沿海行動。
1923年(大正12年)9月5日神戸着
1923年(大正12年)12月1日予備艦となる。
1926年(大正15年)12月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1927年(昭和2年)6月20日予備艦となる。
1927年(昭和2年)12月1日第二遣外艦隊に編入。
1927年(昭和2年)12月1日呉発。 旅順を基地として青島方面行動。
1928年(昭和3年)12月1日予備艦となる。
1930年(昭和5年)5月1日第二遣外艦隊に編入。
1930年(昭和5年)5月5日呉発。 旅順を基地として青島方面行動。
1932年(昭和7年)9月7日呉着。
1932年(昭和7年)9月8日予備艦となる。
1932年(昭和7年)12月1日第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1933年(昭和8年)6月29日佐世保発。 南支方面行動。
1933年(昭和8年)7月5日馬公着。
1933年(昭和8年)7月13日高雄発。 南洋方面行動。
1933年(昭和8年)8月21日横須賀着。
1933年(昭和8年)11月1日馬公要港部に編入。
1933年(昭和8年)11月5日馬公着。 台湾方面行動。
1933年(昭和8年)12月3日馬公を基地として、南支方面行動。
1934年(昭和9年)10月15日馬公発。
1934年(昭和9年)10月17日呉着。
1934年(昭和9年)11月15日第三艦隊第十戦隊に編入。
1934年(昭和9年)12月12日旅順発。 旅順を基地として中国沿岸行動。
1936年(昭和11年)12月1日予備艦となる。
1936年(昭和11年)12月18日呉着。
1937年(昭和12年)9月7日呉鎮守府籍に編入。 兵学校練習艦となる。
1937年(昭和12年)9月8日佐世保発。 中支方面行動。
1937年(昭和12年)9月17日呉着。
1937年(昭和12年)10月28日呉発。 中支方面行動。
1937年(昭和12年)11月20日第四艦隊付属に編入。
1937年(昭和12年)11月23日佐世保着。
1937年(昭和12年)12月1日第四艦隊第三潜水戦隊に編入。
1937年(昭和12年)12月12日旅順発。 旅順を基地として中支方面行動。
1938年(昭和13年)6月20日第四艦隊第四航空戦隊に編入。
1938年(昭和13年)8月1日第四艦隊第十三戦隊に編入。
1938年(昭和13年)12月15日第四艦隊第十二戦隊に編入。
1939年(昭和14年)11月15日特別役務艦となる。
1939年(昭和14年)11月17日呉着。
1940年(昭和15年)8月1日予備艦となる。
1941年(昭和16年)4月10日第三艦隊第十六戦隊に編入。
1941年(昭和16年)7月5日呉発。 南支方面行動。
1941年(昭和16年)9月7日呉着。
1941年(昭和16年)11月23日佐世保発。 寺島水道で戦備作業。
1941年(昭和16年)11月29日寺島水道発。
1941年(昭和16年)12月2日馬公着。
1941年(昭和16年)12月7日馬公発。 比島攻略作戦支援。
1941年(昭和16年)12月14日馬公着。
1941年(昭和16年)12月19日馬公発。 リンガエン上陸作戦支援。
1941年(昭和16年)12月23日馬公着。 停泊諸訓練。、整備作業。
1942年(昭和17年)1月5日第三南遣艦隊に編入。
1942年(昭和17年)1月10日高雄発。 マニラ湾口哨戒。
1942年(昭和17年)1月31日リンガエン湾着。
1942年(昭和17年)2月8日リンガエン湾発。 船団護衛。
1942年(昭和17年)2月11日リンガエン湾着。
1942年(昭和17年)2月26日スビック湾発。 ガラレ攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)3月1日セブ港砲撃。
1942年(昭和17年)3月2日ザンボアンガ攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)3月5日リンガエン湾着。
1942年(昭和17年)3月25日スビック湾へ回航。
1942年(昭和17年)4月4日オロンガボ発。 コレヒドール攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)4月24日セブ島方面行動。
1942年(昭和17年)4月29日オロンガボ着。
1942年(昭和17年)5月9日マニラへ回航。 警戒停泊。
1942年(昭和17年)8月7日マニラ発。
1942年(昭和17年)8月12日呉着。
1942年(昭和17年)8月29日入渠。
1942年(昭和17年)9月10日出渠。
1942年(昭和17年)9月15日呉発。
1942年(昭和17年)9月20日マニラ着。
1942年(昭和17年)9月20日第二南遣艦隊第十六戦隊に編入。
1942年(昭和17年)9月22日マニラ発。
1942年(昭和17年)9月24日香港着。 陸軍部隊乗艦。
1942年(昭和17年)9月26日香港発。
1942年(昭和17年)10月4日パラオ着。
1942年(昭和17年)10月5日パラオ発。 沖輸送。
1942年(昭和17年)10月10日ラバウル着。 同日、ラバウル発。
1942年(昭和17年)10月18日マカッサル着。 警泊。
1942年(昭和17年)11月19日マカッサル発。
1942年(昭和17年)11月21日アンボン着。 同日、アンボン発。
1942年(昭和17年)11月25日マニラ着。
1942年(昭和17年)11月27日マニラ発。 陸軍部隊輸送(夏輸送)。
1942年(昭和17年)12月3日ラバウル着。 陸軍部隊揚陸。 同日、ラバウル発。
1942年(昭和17年)12月11日マカッサル着。 訓練。
1942年(昭和17年)12月28日マカッサル発。
1943年(昭和18年)1月8日アンボン着。
1943年(昭和18年)1月22日アンボン発。
1943年(昭和18年)1月24日マカッサル着。
1943年(昭和18年)2月6日マカッサル発。
1943年(昭和18年)2月12日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)2月21日スラバヤ発。 陸軍部隊輸送。
1943年(昭和18年)2月27日カビエン着。
1943年(昭和18年)2月28日カブイへ回航。 陸戦隊揚陸。 附近の部落調査。
1943年(昭和18年)3月3日カブイ湾発。
1943年(昭和18年)3月15日マノクワリ、ソロンをへてマカッサル着。
1943年(昭和18年)4月12日マカッサル発。
1943年(昭和18年)4月13日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)4月25日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)4月28日シンガポール着。
1943年(昭和18年)5月1日入渠。
1943年(昭和18年)5月8日出渠。
1943年(昭和18年)5月25日シンガポール発。
1943年(昭和18年)5月27日スラバヤ着。 第二十五防空隊人員、物件搭載。
1943年(昭和18年)5月29日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)5月30日マカッサル着
1943年(昭和18年)5月31日マカッサル発。
1943年(昭和18年)6月2日アンボン着。 輸送人員、物件揚陸。 同日、アンボン発。
1943年(昭和18年)6月3日バチヤン泊地着。 警泊、哨戒。
1943年(昭和18年)6月6日バチヤン泊地発。
1943年(昭和18年)6月8日バリックパパン着。
1943年(昭和18年)6月9日バリックパパン発。
1943年(昭和18年)6月10日マカッサル着。 警泊、訓練。
1943年(昭和18年)6月24日マカッサル発。
1943年(昭和18年)6月25日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)6月27日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)6月28日マカッサル着
1943年(昭和18年)6月29日マカッサル発。
1943年(昭和18年)6月30日バリックパパン着。
1943年(昭和18年)7月2日バリックパパン発。
1943年(昭和18年)7月4日カウ泊地着。
1943年(昭和18年)7月13日カウ泊地発。
1943年(昭和18年)7月15日タラカン着。
1943年(昭和18年)7月16日タラカン発。
1943年(昭和18年)7月17日バリックパパン着。
1943年(昭和18年)7月22日バリックパパン発。
1943年(昭和18年)7月24日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)7月30日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)8月1日シンガポール着。
1943年(昭和18年)8月16日シンガポール発。
1943年(昭和18年)8月17日ベラワン着。 陸軍部隊乗艦。
1943年(昭和18年)8月18日ベラワン発。
1943年(昭和18年)8月19日ポートプレア着。 陸軍部隊揚陸。 同日、ポートプレア発。
1943年(昭和18年)8月21日ペナン着。 警泊、補給。
1943年(昭和18年)8月23日ペナン発。
1943年(昭和18年)8月23日ベラワン着。 陸軍部隊乗艦。
1943年(昭和18年)8月24日ベラワン発。
1943年(昭和18年)8月25日ポートプレア着。 同日、ポートプレア発。
1943年(昭和18年)8月28日シンガポール着。 警泊、整備作業。
1943年(昭和18年)9月9日シンガポール発。
1943年(昭和18年)9月10日サバン着。
1943年(昭和18年)9月13日サバン発。
1943年(昭和18年)9月14日シンガポール着。
1943年(昭和18年)9月15日シンガポール発。 同日、リンガ泊地着。 訓練。
1943年(昭和18年)9月27日リンガ泊地発。 同日、シンガポール着。
1943年(昭和18年)10月1日シンガポール発。 ポートプレア輸送に従事。
1943年(昭和18年)10月7日シンガポール着。
1943年(昭和18年)10月10日シンガポール発。
1943年(昭和18年)10月11日ペナン着。
1943年(昭和18年)10月14日ペナン発。 水路調査。
1943年(昭和18年)10月23日シンガポール着。
1943年(昭和18年)11月1日入渠。
1943年(昭和18年)11月8日出渠。
1943年(昭和18年)11月12日シンガポール発。 リンガ泊地で訓練。
1943年(昭和18年)11月30日シンガポール発。 ポートプレア輸送に従事。
1943年(昭和18年)12月8日シンガポール着。
1943年(昭和18年)12月15日シンガポール発。 輸送任務。
1943年(昭和18年)12月17日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)12月20日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)12月21日ジャカルタ着。
1943年(昭和18年)12月23日ジャカルタ発。
1943年(昭和18年)12月25日シンガポール着。
1944年(昭和19年)1月3日シンガポール発。
1944年(昭和19年)1月4日ペナン着。
1944年(昭和19年)1月5日ペナン発。 陸軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)1月6日メルギー泊地着。
1944年(昭和19年)1月7日メルギー泊地発。
1944年(昭和19年)1月8日ペナン着。
1944年(昭和19年)1月11日ペナン発。 ペナン島西方でイギリス潜水艦「タリホー(Tally-ho)」の雷撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)3月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p46
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 13巻 軽巡天竜型・球磨型・夕張.東京,光人社,1997,p44-51
  3. 日本の川 - 九州 - 球磨川 - 国土交通省水管理・国土保全局.https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0911_kumagawa/0911_kumagawa_00.html.2021年2月12日確認
  4. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p100,194,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p41,42
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 13巻 軽巡天竜型・球磨型・夕張.p58

謝辞

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