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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

2002年(平成14年)5月17日建立。 合祀者237柱。(1)

駆逐艦東雲慰霊碑

碑文

駆逐艦東雲慰霊碑

駆逐艦東雲について

東雲
吹雪型駆逐艦

「東雲」は吹雪型駆逐艦の6番艦である。 吹雪型駆逐艦は特型駆逐艦とも呼ばれる。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかけて漸減させる作戦を打ち出した。 この場合でも、彼我の建造能力を考慮する必要があり、その結果、個艦性能の優越を重視するようになった。 このため軍令部は新型駆逐艦に対して、12.7cm砲6門、61cm魚雷9射線、速力37ノットの要求を出した。 これをうけた艦政本部は「特型駆逐艦対策委員会」を設置し、新型駆逐艦の検討を実施し、軍令部要求を基準排水量1,680トンでまとめあげた。

峯風型から睦月型までの駆逐艦が艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を避けていたのに対し、吹雪型では長船首楼型とし、乾絃を大きくとり、艦首に強いシアとフレアを設けて凌波性を向上させた。 主砲は連装3基6門とし、砲塔形式のシールドに収め、前部1基、後部2基の配置とした。 魚雷発射管は3連装3基9射線とし魚雷は予備を含め18本を搭載した。 この艦形と主砲配置は、その後の日本駆逐艦の基礎となり、夕雲型まで引き継がれた。

軍令部要求の重武装と高速力発揮の機関を基準排水量1,680トンに収めるために、外板厚の減少、軽合金の使用等、徹底した重量軽減策が講じられたが、1928年(昭和3年)8月10日に竣工した1番艦「吹雪」は、公試排水量が1,980トンの計画に対し、2,097トンと大幅に超過していた。 しかし、速力は最大37.98ノットを記録し、航洋性にも問題はなかった。 ところが、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件による復原性能の改善、1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等が実施されることとなった。 特に吹雪型駆逐艦は第四艦隊事件で2隻が船体破断、他の艦も船体屈曲や亀裂が発生したため、徹底的な改善対策がなされた。 このため、兵装は保たれたものの、排水量の増大により速力と航続力が低下した。

開戦時、「東雲」は第十二駆逐隊に所属し、コタバル上陸作戦、ボルネオ攻略作戦支援に従事したが、1941年(昭和16年)12月17日、ボルネオ島ミリ付近−北緯4度30分、東経113度30分−でオランダの敷設機雷に触れ沈没した。(2)(3)

艦名

艦名は気象。 明け方に、東の空にたなびく雲。(4) 夏の夜のふすかとすれは郭公なくひとこゑにあくるしののめ(紀貫之/古今和歌集)

要目(5)(6)(7)

新造時
艦種一等駆逐艦
建造所佐世保海軍工廠
基準排水量 ※11,680トン
公試排水量 ※21,980トン
垂線間長112.00m
水線長115.30m
全長118.00m
水線最大幅10.36m
平均喫水3.20m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン2基
推進器軸2軸
出力50,000馬力
速力38.0ノット
燃料重油:475トン
航続力14ノットで4,500浬
兵装50口径三年式12.7cm連装砲A型3基
留式7.7mm単装機銃2基
61cm一二年式3連装発射管3基
八年式魚雷18本
乗員219名
その他開戦時までに7.7mm単装機銃2基を13mm連装機銃1基に換装。

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(3)

年月日履歴
1926年(大正15年)8月12日佐世保海軍工廠において起工。
1927年(昭和2年)11月26日進水。
1928年(昭和3年)7月25日竣工。 第40号駆逐艦と命名。 呉鎮守府籍に編入。
1928年(昭和3年)8月1日東雲と改名。 第十二駆逐隊を編成。
1928年(昭和3年)12月1日第二艦隊第二水雷戦隊第十二駆逐隊に編入。
1929年(昭和4年)3月28日呉発。 北支方面に行動。
1929年(昭和4年)4月3日旅順着。
1930年(昭和5年)5月17日古仁屋発。 南洋方面に行動。
1930年(昭和5年)6月19日横須賀着。
1931年(昭和6年)3月29日福岡発。 青島方面に行動。
1931年(昭和6年)4月5日裏長山列島着。
1931年(昭和6年)5月10日呉工廠入渠。 改修工事。
1931年(昭和6年)12月1日第二十駆逐隊に編入。
1932年(昭和7年)1月20日出渠。
1932年(昭和7年)2月6日佐世保発。 上海事変により中国〜内地間往復。
1932年(昭和7年)2月11日門司着。 同日、門司発。
1932年(昭和7年)2月21日佐世保着。
1932年(昭和7年)2月27日三津浜発。
1932年(昭和7年)3月7日佐世保着。
1933年(昭和8年)2月1日第十二駆逐隊に編入。
1933年(昭和8年)4月18日呉工廠入渠。
1933年(昭和8年)6月10日出渠。
1933年(昭和8年)6月29日佐世保発。 馬鞍群島方面に行動。
1933年(昭和8年)7月5日馬公着。
1933年(昭和8年)7月13日高雄発。 南洋方面に行動。
1933年(昭和8年)8月21日木更津着。
1933年(昭和8年)11月13日第二十駆逐隊に編入。
1934年(昭和9年)10月24日呉工廠入渠。
1935年(昭和10年)2月20日出渠。
1935年(昭和10年)3月29日油谷湾発。 馬鞍群島方面に行動。
1935年(昭和10年)4月4日佐世保着。
1936年(昭和11年)1月5日呉工廠入渠。 改造工事。
1936年(昭和11年)3月30日出渠。
1936年(昭和11年)4月13日福岡発。 青島方面に行動。
1936年(昭和11年)4月23日佐世保着。
1936年(昭和11年)8月4日馬公発。 厦門方面に行動。
1936年(昭和11年)8月6日高雄着。
1936年(昭和11年)12月1日第十二駆逐隊に編入。 第二予備艦となる。
1937年(昭和12年)12月1日第二艦隊第二水雷戦隊第十二駆逐隊となる。
1938年(昭和13年)4月9日佐世保発。 南支方面に行動。
1938年(昭和13年)4月14日高雄着。
1938年(昭和13年)10月9日馬公発。 南支方面に行動。
1938年(昭和13年)11月10日高雄着。
1938年(昭和13年)12月15日第二艦隊第二航空戦隊第十二駆逐隊となる。
1939年(昭和14年)3月21日佐世保発。 北支方面に行動。
1939年(昭和14年)4月3日有明湾着。
1940年(昭和15年)5月1日第一艦隊第三水雷戦隊第十二駆逐隊となる。
1940年(昭和15年)7月8日呉発。 南支方面に行動。
1940年(昭和15年)11月3日呉着。
1940年(昭和15年)11月19日呉工廠入渠。
1940年(昭和15年)11月25日出渠。
1941年(昭和16年)2月24日佐世保発。 南支方面に行動。
1941年(昭和16年)3月11日有明湾着。
1941年(昭和16年)11月20日柱島発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜着。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。
1941年(昭和16年)12月8日コタバル上陸作戦支援。
1941年(昭和16年)12月11日カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月13日カムラン湾発。 ボルネオ攻略作戦支援。
1941年(昭和16年)12月17日ボルネオ島バラム角北方で消息不明。 亡失認定。 (ボルネオ島ミリ付近−北緯4度30分、東経113度30分−でオランダの敷設機雷に触れ沈没)。
1942年(昭和17年)1月15日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p35
  2. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.東京,光人社,1997,p157-162
  3. ab前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.p179
  4. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p51
  6. 日本駆逐艦史.東京,海人社,1992,p84,世界の艦船.No453 1991/7増刊号 増刊第34集
  7. 田村俊夫.特型駆逐艦―吹雪型3タイプ23隻全軌跡.東京,学研パブリッシング,1992,p59,歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 70.(ISBN-13: 978-4056060201)

謝辞

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