私の音楽遍歴(34)<僕を育ててくれた音楽(6)−沖縄民謡>


♪琉球大学の入学式で見た沖縄民謡「谷茶前(タンチャメー)」の歌と踊りが沖縄民謡との初めての出会い
 でした。男役はカイを女役はザルを持ち、楽しげに踊る男女。歌の意味も「タンチャマシマシ、ディアンガーソ
 イソイ、アングァヤクスク」のハヤシの意味もわからないけれど、自然に心がうきうきしてきて、何か踊りたい
 様な気分にさせてくれる、今までに見た事も聞いた事もない音楽。それが沖縄民謡の代表選手の「谷茶前」
 でした。

♭今まで見てきた民謡と言うと直立で歌う民謡歌手とか、円陣で踊る「XXX保存会」のおばさん達という
 イメージしかありませんでした。「谷茶前」の(ちょっと過激に表現すれば)男女が絡み合う様に踊る民謡
 を見たのは初めてでした。(全国を探せばあるのもしれませんが、少なくとも私は知りませんでした。)

♯「谷茶前」の「谷茶(タンチャ)」とは、沖縄本島中部恩納(おんな)村の地名です。現在の谷茶部落は、山
 の上にありますが、大火に見舞われる前は、海沿いの漁村でした。「谷茶」というバス停で降りると「谷茶前」
 の歌碑が立っていますが、そこが昔の谷茶部落の場所です。

♭「谷茶前」の元歌は、村の豊年祭の遊び歌として歌われていたもので、歌詞も現在とは違っていました。
 一説には、琉球国王の尚敬王(1752年〜1794年)が国頭(くにがみ)巡視の際(1726年)万座毛(まんざもう)
 に腰を休めた時、恩納(おんな)間切各部落から芸能を出して歓待した時、谷茶部落では、「谷茶前」を作り、
 臼太鼓(ウスデーク)風に演じたと言われています。臼太鼓とは、太鼓の伴奏で踊る円舞の事です。

♯現在の「谷茶前」の歌と男女ペアの踊りは、明治中期の沖縄芝居勃興期、各劇団が新作舞踊に懸命になっ
 ていた頃に振付られたものです。沖縄本島中部の寒村で生れた民謡が、新しい命を受けて沖縄民謡の代表
 選手として生まれ変わった時でした。同時期の傑作として「加那よう節(かなようぶし)」があります。

♭東京芸術大学の故小泉文夫先生は、『今でも生活の中で民謡が生きているのは、バリ島と沖縄だけだ』
 とおしゃっていました。その言葉の影響を受けてバリ島に行きましたが、やはり皆芸達者であるとともに、島
 の人が作り出す音楽にとても感動しました。

♯私の感じたバリ島と沖縄の共通点は、(1)生活の中に民謡が生きている。それは、バリの踊りや伴奏楽器の
 ガムランをこなせる人がたくさんいるという事ですが、沖縄でも沖縄の踊りや三線をこなせる人はたくさんいる
 点は同じです。島で生れた文化に誇りを持ち積極的に身につける姿勢や、発表会や結婚式等練習の成果を
 披露する場が多い事も見逃せない点だと思います。

♭(2)外からの文化を柔軟に取り入れ、自分のものにしてしまう。バリ島の「ケチャクダンス」は、カエルを模倣
 した踊りですが、この踊りの発案者は、ドイツの人だと聞いております。沖縄でも「京太郎(チョンダラー」や
 「南島(フェーヌシマ)」を始め、外から来た文化を柔軟に取り入れ自分達のものとしています。

♯(3)祈りの島である。バリ島の主婦の一日は、屋敷の内外にいる神様へのお祈りから始まります。沖縄でも家
 の中では、「火の神様」、家の外では大事な先祖の墓、島のいたる所にあるお祈りする場所、そしてそこにひざ
 まずきお祈りする人の姿は絶える事がありません。

♭沖縄の離島のまだ記録されていない民謡を採集にいった研究者の話です。島の古老に『民謡を聞かせて
 ください』と言うと、自ら踊りながら披露してくれたそうです。しかし、踊りが終わらない内に倒れた古老は、その
 まま死んでしまいました。その研究者は、沖縄の民謡研究の為とはいえ古老の命を縮めてしまった様に思い
 心を痛めていました。すると、古老の親戚よりユタ(霊能力を持つ人)に見てもらった所、『オジイは踊りながら
 死ねた事をとても喜んでいる』言っていたとの連絡が入り、ほっとしたという話を聞いた事があります。

(2002年7月6日掲載)


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