きのう土曜日、As the Hague Ordains の著者、エリザ・シドモアを横浜の外人墓地に訪ねました。
目的は、シドモアの墓の傍らに植えられているという、ワシントンからの里帰り桜って、どれなのか、また何本なのか、確かめることでした。というのも、4本と書かれたブログ記事も見つかるし、ネット上の写真をいろいろ見比べても、どの桜の木を指しているのか、さっぱりわからなかったせいです。
外人墓地は土日の午後だけの公開ですが、折よく、このところの異常とも言える陽気のために、墓地の桜もちょうど満開になっていました。
寄棟造の屋根を象ったシドモアファミリーの墓石のそばに、桜は1本植えられていました。墓の左手奥に見えるのがそれ。
ただ、アメリカからどのような姿で里帰りしたのか、つまり根のついた一本の桜の木としてなのか、何本かの枝を運んで日本で接ぎ木したものか、分かりません。それは「里帰りした桜」という意味では本質的なことではないけれど、せっかくの歴史的エピソードなのだから、その植えた当事者の「シドモア桜の会」の方が事実を記録として残し、公開してくれることを期待しましょう。
バイクの旅もそうだけど、現地に行ってみてはじめて気づくことって多いもので、どれがシドモア桜なのかやっと分かったことに加えて、そこの墓石がまた予想外でした。シドモアの墓銘が見えなかったのです。
というのは、その墓石の正面上部(屋根の部分)に大きく刻まれている墓銘はシドモアの母親、エリザ・キャサリン・シドモアのものだったのです。
SACRED TO THE MEMORY OFもともとは母親ひとりのための墓だったと思われます。名前は同じEliza、ミドルネームが違うだけなので、あるいはこれをわたしたちのエリザ・シドモアと勘ちがいしている墓参者も多いかもしれません。墓地の公開部分の順路案内図にも「15 スキッドモア:(シドモア)米ポトマック河畔への日本の桜の移植に尽力した文筆家」とあるだけですので、シドモア個人の墓と誤解されそうです。
ELIZA CATHERINE SCIDMORE
BORN AT CANTON, OHIO, UNITED STATES OF AMERICA, DECEMBER 22, 1822
DIED AT YOKOHAMA, JAPAN, OCTOBER 5, 1916
横浜で息子のジョージと住んでいた母エリザが亡くなったのは1916年。その6年後に独身でアメリカ総領事だったジョージが亡くなり、母の墓に一緒に納められました。これはたぶん娘エリザの希望だったと想像しますが、記録は見つかりません。屋根下の前面に兄の墓銘があります。
GEORGE HAWTHORNE SCIDMOREでは、わたしたちのエリザ・シドモアの墓銘はどこにあるのかと捜したら、左側面、屋根の十字架の下方に刻まれていました。うっかりすると見過ごしてしまいます。
AMERICAN CONSUL-GENERAL
BORN, OCTOBER 12, 1854
DIED, NOVEMBER 27, 1922
ELIZA RUHAMAH SCIDMOREあれれっ?生年がまちがって彫られています。ほんとは1856年なのですが、どこでまちがったものでしょう?
BORN OCTOBER 14-1855 CLINTON IOWA
DIED NOVEMBER 3-1928
GENEVA SWITZERLAND
兄ジョージ同様、やはり生涯独身だったエリザは、1928年11月3日にジュネーブで亡くなりますが、その翌日11月4日付けの、作家の死を報じたニューヨークタイムズの記事は、エリザが、自分が死んでも葬儀は無用、火葬にして散骨してほしい、とジュネーブのアメリカ領事に手紙を残していた、と伝えています。
同時に記事は、しかし彼女のアメリカの親しい友人たちが葬儀を執り行うつもりだ、とも添えています。はたしてどのような葬儀が行われ、どういう外交的交渉によって遺骨を日本が引き取ることができたのか、知りたいところですが、その記録や証言は今に残っているものでしょうか。
その経緯はどうあれ、エリザが帰って来るべきところは、やはりここだったと思わずにはいられません。ワシントンから里帰りした「シドモア桜」の満開の花々が、あたかもエリザの墓銘に語りかけているかのようでした。
ー「わたしたちも帰ったわよ」