1.松山にロジア人捕虜収容所があった?
先日、経堂の東京ロシア語学院に行ったら、ある写真集の出版のお知らせが掲示されていた。そのタイトルが「ロシア人捕虜写真コレクション」。日露戦争時の写真らしい。ロシア国立映画写真資料古文書館と東京ロシア語学院との共同復刻出版とある。そのパンフレットをもらってきた。読み出してびっくりした。なんと松山に日露戦争時にロシア兵捕虜を収容する施設があった、という。捕虜の数は松山だけでも6千、さらに全国各地に収容所が開設されて、最大時7万もの捕虜が日本にいた、というのだ。ぜんぜん知らなかった。
それだけならともかく、意外なのは、捕虜は刑務所のように外部から隔離された牢獄に押し込められていたのではなかった。自由に外出ができたばかりか、道後温泉にも足しげく通っている。温泉でくつろぐ将校たちの写真まである。当然一般市民との交流もあった。捕虜という言葉から想像する待遇とは全く異質のものだ。
いっぽう、同じ時期に松山にいたという設定の坊っちゃんにはロシア人捕虜は登場しない。松山の収容所は1904年3月に開設、1906年2月の閉所。坊っちゃんには日露戦争の祝勝会が出て来るが、それがいつのものかははっきりとは書かれていない。ただ、松山の坊っちゃんの季節設定は夏であること、祝勝会が簡素なものだったこと、クロパトキンの退却が譬えに出て来ることを考えると、1904年の8月24日〜9月4日の遼陽会戦の前後を想定したものか。
むろん、漱石は坊っちゃんの舞台を松山と明言しているわけではないし、漱石が松山にいたのは日清講和条約調印の1895年4月から1年間だけだ。そのときの祝勝行事などがいくらか反映しているだろうが、坊っちゃんを執筆したのは東京だし、それが出版されたのも収容所が閉じられた後のことだ。前回のエッセーで坊っちゃんの目に入った世相を読み解いたつもりが、坊っちゃんの見なかったもうひとつの松山がいきなり現れた。これも何かの因縁か。さっそく、この写真集を注文するとともに、図書館で日露戦争時の捕虜収容所にかんする文献を捜す。
するとまず、松山には収容所そのものは今に残っていないが、そこで亡くなった(おもに戦場での負傷のため)ロシア人捕虜の墓地が保存されていることを知る。松山ロシア人墓地。はて、そんなところがあったか? わたしは5年ほど前に四国を回ったとき、松山で一泊したが、そこでは道後温泉で坊っちゃんを偲び、松山城のみごとさに感嘆し、坂の上の雲ミュージアムで退屈したくらいだ。だが、ロシア人墓地のことはガイドブックになかった。史跡としては重く見ていないものか。
さらに、またまた意外な本と出会うことになる。松山で捕虜として収容されていたロシア軍将校の看病と面会のためにその妻がはるばるペテルスブルグから地球を一周して松山までやってきていた。その回想録が手記のかたちをとって1907年に出版されていたのだ。それが90年ちかく経って日本語に翻訳されていた。
『日露戦争下の日本 ー ロシア軍人捕虜の妻の日記』戦争している最中に、捕虜に会いに日本までやって来た敵国人がいた?!そんなことが可能だったのか?!しかも女性で。さらにロシアから、また途中イギリスからも、松山の夫に向けて電報を打つのだ。えーっ、すでに個人にとっても電報によるグローバル通信の時代だったのか. . . ?と!が頭の中で踊りだす。読み出すとすぐに、その文章が達者なことに驚く。いったい著者はどんな人なんだろう?
ソフィア・フォン・タイル著 小木曽龍・小木曽美代子訳
新人物往来社 1991年
それと思しき人名のスペルを想像してロシア語で検索するも、まったくヒットしない。せっかくの訳書だが、原著の明示がなく、ただ、
原題 ハーグ条約のもとにとあるだけだ。訳者のまえがきによると、ロシア語ではなくて英語で書かれているとのこと。すると、もともとロシア語で書かれた手記をもとにして、アメリカ人の作家が英語で仕上げた作品なんだろうか?
ヘンリーホルト社
1907年 ニューヨーク
そこで、Hague, Henry Holt, prisoner などとキーワードを入れて検索すると、見つかった! 著者は Sophia von Theill ではなかった。
As the Hague Ordains : Journal of a Russian prisoner's wife in Japanエライザ・シドモアって、だれだ?
by Eliza Ruhamah Scidmore
Henry Holt and Company, New York 1907
2.著者名のなかった原作の初版あらためてアマゾンで著者名を調べたら、上記の新人物往来社の訳本は、2005年になって「著者判明により初版時とは著者名異なる」としてエリザ・シドモアの名を入れた新装版が出ていた。なになに、100年ものあいだ著者が不明だったの? 次々と謎が出て来る。いちいち詮索しないでは済まないわたしは探偵気分。
すばらしいことに、アメリカ国会図書館(The Library of Congress 議会図書館とも)の蔵書となっているこの100年前の本がそっくりスキャニングされてインターネット上で公開されている。1907年4月に刊行された初版だ。そこにはほんとに著者名がない。著者を明かさない覆面本って初めて見る。じゃあ、著者が Eliza Scidmore と分かったのはいつのことなのか。優秀な探偵が捜査を続けると、月は不明だが同年の1907年の重版と思われるコピーを押さえた。University of California の図書館の所蔵本だ。
そこには Eliza Ruhamah Scidmore の著者名と、Jinrikisha Days in Japan など、それまでの著作が併記されている。すでに名の知れたライターだったことが分かる。では、なぜ初版では作者が伏せられたのだろう? シドモア自身の意向か、出版社の企みか?
その事情は分からないが、出版されるとすぐに話題になったこと、しかし作者がだれなのか知られていなかったことはたしかだ。というのも、4月に発行されるや、ただちにニューヨークタイムズに書評が掲載されている。しかも、書いているのは日本人だ。
A Russian Prisoner in Japan : The Supposed "Journal" of a Russian Prisoner's Wife Reviewed by a Japanese副題の「日本人による書評」というのは、本人のものか、編集者がつけたものか、分からないが、日本人から見て本の内容はどうなのか、という編集部の関心もあったのだろう。それに応えるべく、書評子はこうコメントする。
by K. K. Kawakami, A. M. New York Times April 27, 1907
Perhaps no book has as yet described the Russian prisoners' life in Japan so graphically and so entertainingly as this book. The work professes to be the "journal of a Russian prisoner's wife in Japan," but the thought it sets forth is distinctly masculine, thinly guised to feminine expression Is it too hasty to suspect that it was really written by some war correspondent, perhaps an American? However that may be, it impresses us as a work by one who is well versed with the daily life and the political and social conditions in both Russia and Japan.graphically and entertainingly とはうまく言い表している。だが、K. K. Kawakamiって、だれだろう? A.M.とはMaster of Arts かな? すると、どこかアメリカの大学院で修士号をとった日本人留学生だろうか?やはりそのとおりで、意外にも簡単に検索できた。河上清(1873ー1949)、米国で活躍した日本人ジャーナリスト、という。
おそらく、本書のように、日本におけるロシア兵捕虜の生活ぶりを、その様子が目に浮かぶように、かつ読んでいて楽しめるように、描写した本は、これまでになかった。この作品は「ロシア人捕虜の妻の日記」という体裁をとっているが、そこで述べられている考えは、どうみても女性の語り口を装った男性のものだ。実際の著者は、だれか戦争記者、それもおそらくはアメリカ人、と推理するのは穿った見方だろうか? だが誰が書いたにせよ、これは、日本とロシア双方のふだんの生活、その政治と社会の現状に精通した者による作品と思わせるに十分である。残念なことに、当時は英語ジャーナリズムは日本語ジャーナリズムとまったく別世界であったようだ。もっとも、ジャーナリズムと呼べるものが当時日本で形成されていたわけではない。
それはともかく、その著者名のない初版本を1980年代(?)になって発見し、その価値を認めた日本人がいた。そうしてそのgraphical で entertaining な英語を、同じように生き生きと、しかもユーモアもうまく日本語に移し替えてくれた。ふたりの訳者は、やはり、ほんとの作者を知らずにいたものと見える。1991年の時点では、たしかに、著者名の入った版を捜すのは難しかったことだろう。
Eliza Ruhamah Scidmore、1856年 - 1928年、Elizaは エライザ とカナ表記したほうが原音に近いと思うが、すでに エリザ・シドモア で Jinrikisha Days in Japan の翻訳(『シドモア日本紀行』講談社学術文庫など)が出ているので、ここでもエリザとしておこう。この著書や他の紀行文のために、紀行作家、旅行作家などと紹介されるケースもあるが、より適切には、地理学者、写真家、ジャーナリスト、作家とすべきだろう。
彼女の名前は、なによりもまず、ワシントンのポトマック公園に日本の桜を植えた立役者として現れる。去年2012年は、そのポトマックに日本からの桜が植えられて100周年にあたる。さらにその前年の2011年の三陸沖地震による津波被害に際しても彼女の名が引き合いに出された。それは、1896年にナショナルジオグラフィックの記者として日本に滞在していた彼女は、三陸を襲った地震と津波を取材すべく、すぐさまカメラを携えて現地に向かい、その記事と写真を NATIONAL GEOGRAPHIC誌の9月号に掲載した。それは、はじめて Tsunami という単語を英語圏で発信したレポートともなった。その写真を見ると、2011年のものではないのかと錯覚するほどだ。
この記事は、やはり彼女のスタイルのまま、graphically にその惨状ばかりでなく、津波がどのようなものだったかを、生々しく伝えている。もちろん entertainingly ではなくて、その代わり科学的、geographically な記述がある。
The most popular theory is that it resulted from the caving-in of some part of the wall or bed of the great "Tuscarora Deep," one of the greatest depressions of the ocean bed in the world, discovered in 1874 by the present Rear-Admiral Belknap, U. S. N., while in command of the U. S. S. Tuscarora, engaged in deep-sea surveys.タスカローラ海溝とは今でいう千島海溝だが、現在の日本海溝も含んで捉えられている。1895年の時点での海底地図はこのように理解されていた。
("The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan" by Eliza Ruhamah Scidmore, NATIONAL GEOGRAPHIC September 1896)
(津波発生原因の)もっとも有力な理論は、世界の海底の中でもっとも巨大な落ち込みである「タスカローラ海溝」でそこの岩壁か海底の一部が落ち込むことに起因する、というものである。この海溝は、現在アメリカ海軍少将である Belknap氏が、かつてU.S.S.Tuscarora号で海底探査を指揮していた1874年に発見したものである。今読んでも、自分で見聞きしたことを表面的になでるのではなく、事実を広く渉猟して真実に迫ろうとする彼女のジャーナリスト精神が際立っている。それにしても、なんでアメリカが海底の地形を調査するんだろう?
その前に、As the Hague Ordains(以下『ハーグ条約のもとに』)と「ロシア人捕虜写真コレクション」(以下『写真集』)を照合してみよう。
3.ノンフィクションよりも真実に迫る「フィクション」さて、実際にロシア人捕虜の妻が書いた日記ではなくて、日記の体裁をとったフィクションと分かったからには、書かれていることのどこまでが事実で、どこからが創作なのか、気になってしまった。というのも、内容があまりに真実味を帯びているので、たんなる小説と片付けるわけにはいかないのだ。そこへ、注文しておいた『写真集』が届いた。453点もの写真が分類され、仏露日の3カ国語の注釈がついた235ページの大判重量本だ。
なぜフランス語なのかというと、この『写真集』は当時ロシアと友好関係にあったフランスが、日本のフランス領事に捕虜がハーグ条約に定められたように扱われているかどうか、その監視の任務に当たらせた。この写真はその領事が報告書に付属したアルバムだという。それが、どういういきさつか、ロシア国立映画写真資料古文書館に保存されていたのだ。
『ハーグ条約のもとに』には写真が8点使われている。この時代は写真画像と文字は別刷りで、文字はもちろん活版、写真はたぶんコロタイプ印刷と思われる。だから、写真画像はテキストのページとしてナンバリングされないで、テキストのページとページの間に挿入される。写真のページの裏はむろん白地となる。今の印刷物を見慣れているわたしたちは、当時の印刷というものがいかなるものだったか、このようにアメリカの国会図書館はじめ大学・公共図書館の蔵書がそのまま画像データとして公開されることで、理解の助けになる。20世紀は、写真画像をいかに精密に複製するか、しかも安価に大量に、ということが印刷技術の追求してきたことだ。その結果として、現在ではオフセットによるカラー印刷が主流となっている。だが、20世紀初頭は、『ハーグ条約のもとに』の表紙にわざわざ Illustrated とあるように、文字印刷と写真印刷はまだまだ別物だった。
別刷りで挿入された写真印刷は、テキストのページのように糸綴じされないで、糊付けでもされていたものか、外れてしまうことがある。現に、アメリカ国会図書館の初版本には内表紙の前に置かれた写真が欠落している。University of Californiaの所蔵本に残るその写真と同じものが『写真集』にもある。さらに、この同じ写真が、捕虜を経験したロシア人が帰国後の1906年に出版した体験記にも使われている。体験記とは、ノンフィクション本と言えようか。
「松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本」さらに、2004年に「あらためて捕虜収容所百年の歴史と現在を学術的な観点から世に問う」た以下の本にもこの写真が見える。
F.クプチンスキー 小田川研二訳 中央公論社 1988年
(以下『クプチンスキー日記』)「マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜」ここで、この写真そのものを写「真」、つまり、「ありのままの事実」を記録したものとみなすことにして、これをそれぞれの筆者がどう記述しているかを比べてみる。
松山大学編 成文社 2004年
(以下『松山大学編』)『写真集』には「バラック厰舎補修の間の将校のための仮施設」とある。だがシドモアは写真に「宿舎修理のため、一般収容所へ三日間移動させられたロシア人将校たち」と日数まで入れたキャプションを付けた上で、本文ではさらにこう描写する。
旅順港で降伏して捕虜となった将校たちは、みんな、収容所の手狭さと寒さに不平をこぼしている。なんとまあ、この白髪まじりの年老いたシベリア生まれの人々は、寒さや日本の冬の過酷さに文句を言っていることだろう!(中略)そこで日本当局は、この将校たちを三日間だけ一般収容所に移し、その間に大工たちを呼んで木造家屋の割れ目や継ぎ目を簡単な木工しごとで継ぎ合わせさせた。そしてその場所をきちんとした住み心地の良いものに修理させた。なるほど、経験とは大したものだ!まるでじっさいにその場に居合わせたごとくである。ところがクプチンスキーは
(『ハーグ条約のもとに』p.195)とっかかりの第一バラックには将校たちが大勢はいっている。全員病人とみなされているが、ほとんどが全快している。日本人医師や看護婦の世話でとっくに傷も癒えている。と、妙なことを語っている。どうも、写真が撮られたときの状況を知らないで解説しているように聞こえる。『松山大学編』では「バラックでのロシア兵たち:写真提供/松山市」とキャプションがあるのみで、バラック病棟の様子を伝えるものとして使われているだけだ。
(『クプチンスキー日記』p.34)ノンフィクションのはずの『クプチンスキー日記』が、臭いな、と思わせるのはもうひとつの写真だ。これは旅順港からの捕虜が到着したときの写真。印刷では鮮明に見えないが、右隅に少女が一緒にいるのがすぐ気が付く。クプチンスキーはこの写真について「旅順からの捕虜が高浜桟橋に到着」とキャプションを入れているだけで、本文でも少女が写っていることに触れていない。たぶん、この少女がだれなのか知らなかったせいだろう。『写真集』には
高浜にて、下船する旅順将校と注釈があり、ジェーニャの写っている他の写真への参照もある。ではシドモアの描写はどうか? 写真につけたキャプションは「砲兵隊のある将校は旅順から幼い娘を連れて松山へ到着した」。そうして本文ではまず、旅順で降伏したロシア兵がさぞ打ちひしがれて下船してくるかと、同情心で出迎えた日本人と「私」ことソフィアが、まるで裕福な旅行者のようにロシア兵たちが堂々と歩いてくるのをあっけにとられて眺めていた(これは写真を見るわたしたちも同様だ)ことに続けて、こう記述する。
右端を歩くのは捕虜将校イヴァノフと娘のジェーニャ (写真43,48 参照)
松山 1905年1月
(『写真集』 写真30)誇り高い旅順港守備隊の日本上陸は、まったく悲劇的ではなかった。悲しみで心を揺り動かされる点など、少しもなかった。この光景を見て、ウェレストシャギンといえども、とても歴史的絵画として描くことはできないだろう。しかしこんな話も聞いた。一人の砲兵隊将校は、自分の小さな娘を連れてやってきた。この子の母親は包囲戦が始まったときに死亡した。この子は包囲戦の中、高地要塞での彼の話し相手だった。そして降伏となったら、どこへこの子をやることが出来よう。誰といっしょに? 乃木大将は、この砲台の女の子が日本へ来ることを承諾してくれたのだ。こうして動かぬ証拠としての写真を尺度にすると、ノンフィクションの『クプチンスキー日記』よりも、フィクションのはずの『ハーグ条約のもとに』の記述のほうが、ことごとく『写真集』の注釈と符号していることに驚く。もしも『写真集』が出版されないでいたら、『ハーグ条約のもとに』がこれほど事実に基づいて書かれていたとは、だれも思わなかったことだろう。
(『ハーグ条約のもとに』p.182)
4.写真と通信の時代が始まっていたそもそも、同じ写真がなぜあちこちの出版物に使われているのか? どう見ても、これらの写真が焼き増しされて配布、あるいは販売されていた、としか考えられない。たとえ、渡ったのが一部の希望者に限られていたとしても。ということは、収容所と捕虜の写真は軍事機密ではなくて、むしろ公開のための資料だった。ハーグ条約に定められたように捕虜が扱われ、そのことで日本が欧米と肩を並べられる先進国とみなされることが目的だった。日露戦争は、世界中が観戦していた戦争でもあった。それを可能にしていたのが、写真とカメラの進歩、それと電信による情報通信の即時性だ。日露戦争の戦況は、従軍記者や通信員によりリアルタイムで発信され、世界の新聞が時をおかずにそれを報じた。
20世紀初頭はすでにコダックからフィルム写真が出されているが、プロ用途にはまだまだガラス乾板が主流だったと思われる。シドモアは旅順からやってきたロシア兵捕虜の口を借りて、旅順港のロシア兵通信員が、自軍の艦船が沈没していく瞬間を歴史的写真のごとく撮影している様子を描写している。
「砲台胸壁の上にいる僕たちみんなが恐怖で釘付けにされ、言葉も言えずにいたのに、ラスチェフスキーは演習でも見るように冷静に、感光板を取り出してカチャリ、カチャリと撮っていたわけです。『僕は感光板を全部用意してきた運が良かったよ』と彼は言いました。『6枚も撮影しちゃった!』。彼はペトロパヴロフスク号が最初に機雷に触れた時からずっと撮り続けていたのです。この日の午後、彼は写真を現像してペテルスブルグの皇帝のもとへ送りました。そして全ヨーロッパの人々がその写真を眺めたという次第です。僕も焼き増しをして貰いましたがね」写真は当時の先端技術のひとつで、だれもが撮影できるものではなかったが、日本でも全国に写真館ができ始めたころだ。坊っちゃんの中でも、
(『ハーグ条約のもとに』p.194)ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。とあるが、芝の写真師とは、当時有名だった丸木利陽のことだ。
(岩波文庫 p.51)『写真集』には数多くの捕虜の集合写真があるが、これはプロのカメラマン、捕虜を並べる指揮官、撮影した乾板を現像し焼き増しする設備が近くにあってはじめて可能ではなかったか。
写真と並行して電信による通信網が地球規模で完成するのも見逃せない。1874年に千島海溝を発見するタスカローラ号は、海底ケーブル敷設を目的とした、音波による [ピアノ線と錘による に訂正。火薬を爆発させて反響音を聴くリモートセンシングはもう少し後の時代のようだ。(2013.3.27)] 海底地形調査を行っていたのだ。ヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ海底ケーブルはすでに1866年に敷設されている。海底ケーブルによる電信通信で先陣を切っていたのは大英帝国だ。その植民地を繋ぐ地球一周のケーブル網を1902年に完成させて、国際情報戦で密かに優位に立った。
一方日本と中国大陸とは
日本最初の海底ケーブルは、大北電信会社によって1871年敷設された、長崎〜上海および長崎〜ウラジオストク間のものである。これにより、欧亜陸上電信線と接続され、日本の国際電報事業が開始された。その後1883年に呼子〜釜山間の海底電信線も敷設された。ソフィアがロシアとイギリスから電報を打つのは、こうした海底ケーブルによる通信網が完成していたからだ。
(Wikipedia 海底ケーブル)通信と写真が結びついたものとして絵葉書が登場するのも20世紀初頭のことだ。官製はがきに加え、1900年に私製はがきが認可になると、写真を使った絵葉書も登場する。それは日露戦争によってブームともなった。その中には、ロシア人捕虜の写真が絵葉書になっているものがある。北海道大学附属図書館のスラブ研究センター図書室が「日露戦争捕虜収容所関係絵葉書帖」を公開している。
その中でもひときわ目を引く写真がこれだ。旅順からの将校が長崎に停留したときの写真らしいが、その説明が日英露の3カ国語で記されていることから、だれが購入対象者だったか想像できる。そして目を引く理由は、そこに一緒に写っている和服の日本女性だ。ロシア将校が斜に構えておとなしそうに坐っているそばで、日本女性が立ち姿勢で、寒い時候のせいとはいえ、袖の中で腕組みして、まっすぐ正面を見据えている。まるで日本女性に降伏したロシア兵士の図だ。なお、ロシア人捕虜に強い印象を残したのは、日本赤十字社の日本人看護婦たちだった。この絵葉書のふたりの女性は、ひょっとしたら、ユニフォームを和服に着替えた看護婦さんかもしれない。
こうして、絵葉書というものが今とは違った目的と意味をもっていたことを知る。それは、個人の体験と結びついた映像記憶なのだ。
現代のわれわれが思い浮かべる絵葉書とは、観光地で売られる名所絵葉書と美術展で売られる複製絵葉書ぐらいかもしれない。当時の絵葉書の領域はもっと多岐にわたっており、流行に火を点じた日露戦争の祝勝記念絵葉書に象徴されるように、戦争や災害やイベントなど出来事を伝える写真絵葉書がとりわけ重要なものだった。それらは出来事を速報するメディアというよりは、むしろ、出来事と自分との間の距離を確認するために使われた。その意味で、まさしく「記念」絵葉書なのである。なお、絵葉書の表側の画像もあり、切手を貼る位置に料金が印刷されている。それによると、「内国には1銭5厘 外国には4銭切手」
木下直之「絵葉書の意味するもの」(『印刷博物誌』凸版印刷 2001年 p.555)皮肉なことかも知れないが、女性が社会進出を果たすきっかけのひとつは戦争だった。赤十字の活動はその先駆けでもある。戦時中の勤労動員は、日本に限らずアメリカでも、女性が男性と対等に仕事をする時代を準備することになった。「天は女の上に男を造らず」の福音は戦争の神様の置き土産でもある。
シドモアはソフィアの口を借りて、こう自分の考えを述べる。
さて、日本の女性についてだが、日本女性は非常に長い間、圧迫を受け、自己主張を放棄してきたので、彼女たちを家庭から解放して社会的に進出する勇気を与えるためには、さらに長期にわたる教育が必要だろう。私が松山へ来た当初に、ここに在住している英米プロテスタントの宣教師さん方が私に会いに見えた。その時の話によると、この戦争は日本女性の上に驚くべき変化をもたらしているらしい。つまり、赤十字社の積極的な活動のために、日本の各階級の女性たちは各家庭から呼び出されることになった。男性は対等の立場で女性と話し合い、協力せざるを得なくなった。このような公的な仕事となると、時には女性の方が、かえってより優れた能力や頭の働きを示すものだ。これは日本の男性にとっても有益な体験となっている。現在、NHKの大河ドラマで新島八重をやっているが、彼女は日本赤十字社の正会員として、日清戦争時には広島で、そして日露戦争時には大阪で、篤志看護婦として働いている。そのエピソードもたぶん脚本にあることだろう。
(『ハーグ条約のもとに』p.53)
5.写真のないシーンの検証クプチンスキーの収容所日記は1906年の刊行。シドモアの『ハーグ条約のもとに』はその翌年の1907年の出版だが、なんとクプチンスキーのことを書いているのではないかと思われる記述がある。それは、かれが捕虜として日本軍に捕らえられた場面、つまり写真記録なきシーンについてだ。
『クプチンスキー日記』にはその序文の中で捕虜になった経緯が簡単に述べられている。
籠城下の旅順の最前線に四ヶ月近くいたあと、わたしはクロパトキン軍へ情報を伝達するためジャンク[中国の帆船]で北方の営口へ向かった。北軍への潜入は不成功に終わった。わが方のジャンクは海上で日本の駆逐艦の攻撃を受け、私は旅順陥落まで捕虜として抑留された。旅順陥落後一ヶ月後に解放された。松山でロジア人捕虜と共に過ごした六ヶ月あまり、彼等の生活をつぶさに観察する機会をもった。最初この本を読んだとき、捕らえられたシーンの描写がないので、そのことは、すでに別の文章で発表されていることなのだろうか、とあまり詮索しなかった。
(『クプチンスキー日記』p.14)ところが『松山大学編』では、クプチンスキーが意図的に捕虜となったことを示唆する資料を発掘している。それによると、ジャンクにはクプチンスキー、タゲーエフ、スピーツィンの3人のロジア人とジャンクを操る中国人(通訳含む)の計12人が乗っていた。そしてクプチンスキーら3人のロシア人が捕虜となる。そのときの様子を1911年になってクプチンスキーは『新日本』という作品でこう描いている。
我々に向かって、苦しげに警笛を鳴らしながら、全速力で二隻の水雷艇が疾走してきた。狼狽した。無防備の我々は、所持していた軍の報告書類を焼いたり、弾薬盒につめて海中に投棄して、近づいてくる日本人を船縁で待った。ところが同乗していたスピーツィンは帰国後、そのときにクプチンスキーがとった不審な行動を軍上層に報告していた。そのなかで、日本の水雷艇があるいは気づかず通り過ぎたかもしれないのに、クプチンスキーは「ふいに立ち上がり、水雷艇に向かって白いハンカチを振り出した」という。
(桧山真一「小説のなかのマツヤマ」『松山大学編』p.112)クプチンスキーはおくびにもだしていないが、彼がとった行動の意図は明らかである。日本との戦争でロシアのジャーナリストのだれ一人として体験したことのない捕虜となり、敵国内から戦争をロシア国民に報道する ー ロシアの従軍記者としてこれほど魅力的な活動はなかった。『ハーグ条約のもとに』では、ボリス・チクホンという名の捕虜が登場する。従軍記者として旅順に入ったものの、ステッセル将軍から煙たがられて、軍務につくか旅順港から立ち去るかと迫られたところ、文書運搬のジャンクに同乗して旅順を出ることになった、という設定だ。
(桧山真一 上掲 p.113)船は海上が凪いで霧が出たために遅れたが、霧が晴れると日本の水雷艇三隻が視界に入った。二人は公文書に石を縛りつけて海中に投じたが、これを日本軍は望遠鏡で監視していて、両名を書類運搬者と見なして逮捕した。(中略)ところがボリスは従軍記者で軍の文書運搬人という扱いなので、将校としては認められず、宿泊は70名のコサック兵のいるビルの裏側の小舎に住むことにことになった。ボリスは堂々たる態度で言った。いったいシドモアはどうやってこのような情報、資料を集めたものか、不思議でもあり、驚異でもある。ただ想像できることは、ノンフィクションや見聞という形態ではなくて、うわべはフィクションだが、このようなロシア軍人の妻の日記という体裁のほうが、より真実を伝えることができると考えたせいではないか。捕虜とその待遇の真実についてだけではなく、日本と日本人の真実についても。
「私の護衛兵たちよ。ここは私のような隠遁者、あるいは文筆家にとっては理想的な隠れ家だ。(中略)私は今こそ自由に、大歴史小説、戦争ロマンを書くことが出来るのだ」
(『ハーグ条約のもとに』p.81)
6.シドモア桜「優れた本は、たとえ百年に一度しか利用されなかったとしても、その価値を減ずるものではない」というのがアメリカ国会図書館 のモットーと言われるが、たしかに百年後の読者を待っていた本があった。
それは日本人にとってだけの話ではない。エリザ・シドモアはアメリカにあっても長く忘れられていたようだ。だいいち、その伝記の材料になるような書簡や知人の回想録も見当たらない。Wikipedia の記述もまるで中身が乏しい。それでも、100年も前に書かれた著作を偶然知って、その著者に惹かれ、伝記を著すべく研究調査を始めたジャーナリスト・サイエンスライター・編集者がいる。Diana Parsell女史はその進捗をブログ A Great Blooming で公開している。それを強く後押ししているのは、100年を迎えたワシントンの桜だろうか。
エリザはアメリカで排日移民法が成立すると、母国を見限るかのように、1925年にジュネーブに移住する。そこの国際連盟本部で事務次長を務める新渡戸稲造を助けて、世界平和のために尽力する。新渡戸は1926年に事務次長を退任。エリザはジュネーブで1928年に亡くなる。その翌年、日本政府と新渡戸らの働きかけで、エリザの遺骨は日本に送られ、横浜の外人墓地の兄と母の墓に一緒に納められた。その納骨式では新渡戸が英語で弔辞を述べた。
エリザが百年前に実現させたポトマックの桜植樹。その桜が1991年に日本に里帰りして、エリザの眠る墓の傍らに植えられている。
あとがき(2013.3.3)
エリザ・シドモアの As the Hague Ordains のオリジナルコピーはインターネットで公開されているものだけでも4つの異なる版が見つかりますが、それぞれにすこしずつ異同があります。
1907年の初版と、同じ1907年の重版については、本エッセーで触れたとおり、著者名の有無に関する重要版になります。ついで1908年版では、それまで献辞に TO EMILY E. ______ と、本名を伏せていたものが、あらためて
To Emily Eames MacVeagh in Fulfillmentとフルネームが使われています。誰だろうと調べたら、彼女についての回想録 Memories of a Friend (1918) が友人によって書かれていました。が、その中に引用されている書簡の中に Scidmore の名が登場するものの、どのような交遊だったものか、はっきり読み取れないでいます。さらに時を置いて1914年には、出版社をそれまでの Henry Holt and Company から The Century Co. に変更した版があります。内容になにか変更が加えられていないか、以上の4つの版を見比べてみても、本文の組版は全く同じ、活字タイプも同じなら行数も改行位置も同じ、ページのナンバリングもそのまま。まるで同じ印刷版で刷っているかのようです。著者が加筆訂正した形跡はないし、坊っちゃんに見るようなテキスト校訂問題もないように見えます。ただ、この1914年版には写真が省略されていて、表紙からも Illustrated の文字が消えています。
ところが、詳しく見たら、この1914年版にはもっと大きな違いがありました。そこに「まえがき」が追加されていたのです。エッセーをまとめていたときには全く気づきませんでした。わずか3ページの短いものですが、シドモアは、日露戦争時に日本が示したハーグ条約の精神が、日露戦争の前も、またその後でも、ヨーロッパの戦場では見られないことから書き起こして、自らが日本の収容所を取材したときの舞台裏をいくつか明かしています。
まず作家は、当時日本の収容所に立ち入る許可をアメリカ公使館に取ってもらった、と記しています。これは、兄ジョージが日本でアメリカ領事として、またアメリカ公使顧問として、ずっと勤務していたことも力になったことでしょうし、エリザ自身ワシントンにも人脈があったジャーナリストだったからと思われます。
そうして、全国どの収容施設にいつでも立ち入れたこと、どこもが同じ方針で運営されていたこと、捕虜の待遇はハーグ条約の条文以上のものだったことを述べた後、軍の通訳(ここは英語か)がいつも同行したが、通訳の分からない言語(露仏独か)で捕虜と話すのも自由だったこと、訪問時は隠されたものは何もなく、かつ意図して用意された見せ物も無かった、と言い及びます。やっぱり事実だったのか、と頷くことは、「旅順陥落後、ロシア人将校27名の妻たちが、日本で夫のそばに住むことを許されて、私はその妻のうち松山に居住していた4人に会った」と、ほかにソフィアが何人もいたことを証言していること。そのロシア婦人が松山を離れるときの姿が『写真集』にもあります。(写真434)
さらに、ロシア側の捕虜になった日本人兵士がメドヴェージ村でどのような待遇だったのか、人道主義のヨーロッパは関心を払った様子がないこと、帰国した日本人捕虜も黙して語らずにいたことを皮肉った後、こう締めくくります。
言うまでもないことですが、フォン・タイル夫妻とその友人、それにトーサブローも私の創造になる人物で、説明役としてのモデルにすぎません。さらに、これら登場人物は、私の知るだれとも、その職位、性格、条件のいっさいが、合致しないよう、配慮しました ー その描き方でひともんちゃく起きることを避けるためにも。 (As the Hague Ordains PREFACE 1914年)わざわざこのようにことわるのは、そのほかは想像上の人物ではない、ということを言外に含んでいるものでしょうか。なお、As the Hage Ordains にはソフィアを日本で補佐案内するフランス領事が登場します。その名前は提示されていませんが、その領事とは『写真集』とその捕虜待遇に関するレポートを作成した、当時のフランス領事 リュシー・フォサリュー氏でしょう。『写真集』のタイトルは実際は以下のように長いもので、まるで新刊書の帯のようです。ロシア人捕虜写真コレクション 1904年ー1905年 日本におけるロシア人捕虜の滞在と待遇に関する フランス領事リュシー・フォサリュー氏の報告書付属資料として収集分類された写真集 駐日フランス公使館捕虜管理局 モスクワ 2010 復刻版注釈付シドモア自身、兄だけでなく、このフォサリュー氏とも非公開の情報を交換していたと想像しますが、そうだとしても、そこは外交官としての立場を考慮して、作品中で情報源としての栄誉を与えることはありません。面白いのは、捕虜待遇の監視役として収容所に立ち入る許可をもらっているフォサリュー氏にたいして兵庫県知事が、スパイ活動を行っているフシがある、と軍にチクっていること。『写真集』のパンフレットには、フォサリュー氏について、「頗る日本語を能くし、俘虜所在地において各種の人物に接し、種々の探偵をなす如き模様なる趣、兵庫県知事より内報あり」 (『ロシア人捕虜写真コレクション』カタログ 2013年 p.5)ついてはその「挙動に注意」し「無用の者」に接触させないように、と軍から各収容所の所長に送られた警戒文書が引用、紹介されています。大使館員とか外交官とかは、見方を変えれば、諜報員、つまりスパイの能力のあるインテリであるのはあたりまえのことで、この文書ひとつからでも伺えることは、その達者な日本語を駆使して現地で直接取材活動する元気なフランス領事の姿と、それを横目で見ているだけで、その不審活動の具体例や、誰と接触してどんな機密情報を得たのか、逆スパイする能力の無い田舎知事の猜疑心、そして知事からの報告に具体的事実のないことに呆れながら、かといって無視しては、あとで何かトラブルが生じた際に自分のほうに責任が及ぶとばかり、とりあえず「兵庫県知事より内報あり」と名指しして警戒を指示するという、軍のたくみな責任回避能力。なんともユーモラスな三角関係が目に浮かびます。
版の異同について最後に。1914年版では初版以来手を加えられないままと思われていたテキストに、ひとつ変更を見つけました。それまでトーサブローの伯父という設定の大山巌陸軍元帥の参謀長を、樋口から児玉へと実名に差し替え、さらに最終章では「軍神」として児玉源太郎とフルネームで賞賛しています。1914年という年がいかなるものであったかを思うと、この年に敢えて、まえがき入りの改版を出したシドモアの意図にも、思いを巡らしてしまいます。
As the Hague Ordains はジャーナリストとしてのシドモア渾身の旅行記であるばかりでなく、今読むと興味の尽きない「戦争と平和」小説にもなっています。けれど、日露戦争の歴史研究者の間では、これがフィクションという扱いのせいか、まだまだ史料文学的価値が認められていないようです。それは、記述が graphical であることに加えて entertaining なせいもあるかもしれません。世界中どこでも、学者先生というものはユーモアがお嫌いです。