蒸し暑い七月になると京都の中心街は、祇園祭一色となる。祇園祭と云えば、17日の山鉾巡行が有名であるが、七月の一カ月かけた祭りである。祇園祭りの歴史は古く、869年(貞観11)に、都に疫病が流行したため、病魔退散祈願として六十六本の矛を立て、神泉苑で御霊会が行われたのが、そもそもの始まりと云われている。そして、これらの矛が中国や日本の故事にちなむ作り物が加わり、今のような山鉾へと変貌してきた。応仁の乱以降いったん途絶えてしまったが、1500年(明応9)に再開され、現代まで続いてきている。このような豪華な祭りが続いてきたのも、室町時代から街並みが形成されていた「山鉾町」の経済力の賜物であろう。特に、江戸時代以降は、西陣織を中心とした和装卸問屋が軒を並べ、京都の商業中心地として栄えた町でもある。今でも、三越や松坂屋などを見ることが出来る。
祇園祭りの最大のイベントが、17日の山鉾巡行であるが、14日頃から始まる「宵山」によって一気に祭りのムードが高まり、市中には多くの物見客で賑いだす。又、葵祭での稚児選びが話題となる。毎年10歳前後の男の子が選ばれるが、稚児に選ばれると五位少将の格式が授けられ、十万石の大名並みの格式と云われる。その為、稚児になると、家族といえども、その格式に応じた対応をするという。そんな稚児選びは、どのように行われるか、知るべきもないが、その裏では結構大変な駆け引きがあるのではと思ってしまうのも下司の勘繰りか。丁度、葵祭りの「斎王代」の選定も同じ感じであるが。
そんな、祇園祭りは、宵々山の14日と、山鉾巡行の17日の2回観覧したが、雰囲気的には、宵山の方が祭りの気分が味わえる。特に、あのコンチキチンの鉦と笛の音は、妙に体の中に染入ってくるようで、心地良く感じてしまうのも日本人だからだろうか。子供の頃の秋祭りの時の笛や太鼓の音を懐かしく思い出す。未だ梅雨があけきれないなか、汗ばむ町中だが、浴衣姿を見ると何故かホットする。それぞれの町に、鉾や山が建てられ、賑やかな人通りが続く。夕闇が迫り、暗さが増すと提燈に飾られた鉾や山が一段と際立ったものになり、コンチキチンの音がより力強さを増してきたようになる。何時までも、その音の中に身をおきたくなる。
山鉾巡行は、御池通の観覧席で見学したが、この日は晴天で、夏の日差しが強い。盆地特有の暑さである。山鉾を引いてる人達も汗をかきかき進んでいく。やはり、祭りは見るもので無く、参加するものだということを実感する。参加している人々の中には、外人さんも見かける。楽しんでいる様子が分かる。観覧席には、ツアー客も多く、時間になると慌しく席を立っていく。最後まで楽しめないのが可哀想だと思ってしまう。この種の見物は、ツアーより、気ままな方が良いと思ってしまう。
そんな「祇園祭」は、八坂神社の祭礼だ。
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山の間、家々では、その家に伝わる家宝などが、虫干しも兼ね展示され、町家の歴史を伺い知る事が出来る。
山鉾の巡行順序は、くじによって決まるが、長刀鉾・函谷鉾・放下鉾・岩戸山・船鉾・北観音山・端弁慶山・南観音山の八基は、くじは引かないという。何れの山鉾の前懸や胴懸など貴重なペルシャや中国の絨毯で覆われ、豪壮・優美なものである。