京都の街は、東西南北碁盤の目のようになっている。中国・唐の都長安を模したといわれ、いかにも人工的な都市造りとなっている。平安京が完成した頃は、羅生門から延びる朱雀大路を中心に、東西にまたがって街が形成されていたが、そのうち西側の右京が荒廃しはじめてきた。これは、右京地帯には、沼・小泉がいたるところにあり、湿潤な土地であった為といわれ、人々は、東側に集中して住むようになり、京の街全体が左京を中心とした街を形成し始めた。その結果、かっての朱雀大路も狭小化され、かっての平城京とはおおきく変貌していった。やがて、街並みは、鴨川を越え、東山連峰麓には、寺院や貴族達の別荘が造られるようになってきた。平安後期には、白川一帯への「六勝寺」、更に平氏一族の館の「六波羅」など、鴨川を越えた東側は、ますます発展していった。
その後の大火事や戦乱などで、幾度か街並みの復興が為されてきたが、室町時代には、山鉾を出す山鉾町が固まり、さらにその後豊臣秀吉による京都の都市改造の一環として、現在の御所南側に何本かの通が南北に造られた。
このように、京都の中心街には、南北・東西に幾筋もの通があり、それぞれに名前がるが、とても覚えきれない。しかし、京の人は、それを唄にして、覚えられるようになっている。
横筋(東西)には、「まるたけえびすにおしいけ・・・」(丸太町通、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通)
縦筋(南北)には、「てら(寺町)ごこ(御幸町)ふや(麩屋町)とみ(富小路)やなぎ(柳馬場)さかい(堺町)たか(高倉町)あいの(間之町)東(東洞院)」と東側から順番に西側の東洞院通までが詠まれている。
こうした東西南北の通が基本の京都市内では、住所表記も、通を上ルとか下ル、や東入ルといった表記になっている。慣れていない者には分かりづらいが、分かっていれば住所を聞いただけで、どこそこという場所が分かるそうだ。確かに、碁盤の目の縦横に名前をつけとけば、その交差するところが直ぐ分かるのだから同じ理屈だろう。
そんな京の街中、色々な顔を持っている。
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京都には花街として祇園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町の五花街に島原がある。
祇園町は、八坂神社への参詣者に茶の接待する水茶屋が遊興の場として、発展してお茶屋となった。江戸期には、島原は格式をもったところであったことから、もっと手軽に遊べるということから、幕末期以降繁栄し、現在に至っている。
祇園と言えば、舞妓さんだが、中々お目にかかれない。強いて云えば、春の「都踊り」が始まる前の練習を祇園歌舞練場で行った時の帰り道だろうか。
最近は、舞妓姿の観光客が多くなったが、やはり素人は所詮素人と感じる。それでも、小さな女の子が、舞妓姿になっているのを、巽橋で見かけた事があったが、可愛い姿が印象に残り、孫にもさせてみたいと思ったものだ。
四条通を挟んで、南側には、忠臣蔵の舞台で有名な一力亭がある。その前が花見小路通で、石畳となっている。路の両脇には、料理屋や小物を売る店が並んでいるが、一歩中に入ると雰囲気が変わり、置屋が並ぶ。四条通から北側の花見小路通を進むと、夜の繁華街となるが、左手に入っていくと、テレビでよく出てくる辰巳大明神の小さな社、そばを白川が流れる風情ある一角に出る。途中にかかる小さな橋が巽橋。桜の時期、この橋から桜を見るのも一興である。
一度は、祇園の茶屋で舞妓を呼んでの遊興もオツなものであるが、到底無理な話で、祇園の町中をただウロウロするのみだ。
八坂神社前から西に伸びるのが四条通。祇園の花見小路通を越え、何時も女性客が長蛇の列をつくっている甘味所「「都路里」だが、行列に圧倒され休憩した事がない。
鴨川の傍に建つのが有名な「南座」。江戸時代、四条河原の東側に幾つかの芝居小屋があり、その一つの跡地に建つ。この場所は、1603年(慶長8)出雲阿国が「かぶき踊り」を演じたところから歌舞伎発祥の地となっている。現在、毎年11月30日〜12月26日に行われる「吉例顔見世興行」は、関東・関西の人気役者が揃う場として有名。といって、さほど歌舞伎に興味のない人間は、何時もその垂れ幕や看板を見つつ通り越してしまう。
四条大橋から鴨川を望むと、何時もアベックが等間隔に座っているのが、何故か不思議な光景だ。
北は鞍馬口通から南は五条通まで続く道だが、平安京が整備された頃は、一条通以南は、東京極大路であった。しかし、応仁の乱で荒廃してしまった後、1590年(天象8)豊臣秀吉によって、洛中の寺院を集め、寺町通となった。なかでも法華宗(日蓮宗)、時宗、浄土宗の諸寺院が移転の対象とされた。その結果、寺町通は門前町として賑わい、活況を呈した町となっていった。
今でも、寺町通沿いには、諸寺院が残っている。北端には、「天寧寺」があり、山門が比叡山を納めたように望める「額縁の門」となっている。更に、南下すれば御所東側に、紫式部の邸宅跡と云われる「櫨山寺」、御池通を越えると、本能寺の変で有名な「本能寺」がある。今の本能寺は、秀吉によって移されている。
寺町通の中でも、最も風情が残っているのが、丸太町通から御池通の間だろう。道の両側には、仏具や和文具、茶や和菓子などの老舗が並び、更には古物商などが軒を並べている。この通を通ると時には、「一保堂茶舗」に立ち寄り、お茶を一杯飲み休むのが常であった。幾つかのお茶の種類があり、その美味しい飲み方を教えてもらいながら一休憩だが、必ずと云っていいほど待たなければならない。
寺町通も三条通を越えると一変する感じとなる。左手に新京極通となる。この通は、東京への遷都により、京都を荒廃した町にしまいため、時の府知事が、寺院の境内地を接収して、繁華街を計画され、やがて東京の浅草、大阪の千日前と共に日本の三大盛り場に成長した。しかし、部外者から見れば、この地域改造が京都にとって良かったかどうか疑問ではある。そんな新京極通筋に「誓願寺」があり、平安京遷都により奈良から移転されたといわれる古刹がある。清少納言や和泉式部が出家し、往生を遂げたという寺であり、更には落語発祥の寺としても知られる。場違いな感じの古刹だが、これも現代の京都の一縮図かもしれない。
そして、寺町通も新京極通の影響を受けたアーケード商店街となって、四条通まで続き、更に五条通に至る。
四条通から北にある錦小路。京都の台所として有名。狭い通の両脇に、魚介類や青果、惣菜や乾物などの店が所狭しと並んでいる。天正年間(1573年〜92)に鮮魚の市場が開設され、やがて錦市場として発展してきた。
阪急電車「四条河原町」駅から帰る事も多かったので、その際には、何を買う事もないのだが、錦小路を見歩いたものだ。見ていくだけでも楽しいものがある。普段見かけない京野菜や麩、湯葉といった京都ならではの素材も多く、たまに買って行く事ある。最近では、飲食できる店もあり、それだけ多くの観光客が集まる所になったといえるのだろう。今は、京の台所だが、何れ京の食卓になるのではという笑い話もあるが、何時までも今のままの錦小路であって欲しいものだと思う。
幕府公認の遊郭であった島原であるが、今では、その面影を見出すのも難しい。最初、豊臣秀吉によって二条通に設けられたが、二条城が築かれた事により、六条通に移転したが、東本願寺の寺内町などに人家が密集してきた事もあり、再度の突如の移転となる。そtれが、今の島原地区で、島原の謂れは諸説ある。面白いのは、移転前に勃発した島原の乱からきているというもの。
島原の入り口である大門は、1867年(慶応3)に再建された。大門をくぐり、かっての遊郭の町に入り、しばらく進むと揚屋の「角屋」がある。「揚屋」とは、女性を抱えず、置屋から呼んで客を接待するための宴席を提供するところで、「置屋」は、太夫や芸妓達の身を預かる所であった。その揚屋の代表格であった角屋を見学、その際、今でもいる太夫の姿を見ることができた。
角屋の内部は、豪華であり、贅を尽くした客間や庭など立派なものであった。
太夫は、島原の芸妓の中での最高の地位であり、和歌・俳諧・茶道・華道・香道など幅広い分野に優れた教養を身につけた女性だけに与えられたものだという。太夫には、禿(かむろ)と呼ばれる少女が付き従うが、何れ太夫を目指して仕込まれている。今で云えばスーパーウーマンの一つと云えるかもしれない。
この角屋には、歴史上の有名人物も数多く訪れている。江戸時代中期では、円山応挙や与謝蕪村などの文化人、幕末になると西郷隆盛や坂本竜馬、そして近藤勇と。まるでタイムスリップしたかの感となる。
太夫の「かしの式」と呼ばれる置屋から呼ばれた太夫の紹介をする儀式、そして太夫の道中といった姿を見つつ、古き時代を思う一時であった。