奈良を巡る
かっての京都との交通の要所であった奈良坂。道を下れば、東大寺の西側に出、興福寺となる。治承4年(1180)、平重衡率いる平家武士団が、南都に攻め入り、東大寺・興福寺を焼き尽くした時、通った道でもある。奈良坂への上る平地に春日山中から源を発する佐保川が流れ、佐保路と並行するように平城京の左京を流れていて、万葉歌人達の歌に残っている自然溢れる所であったようだ。この佐保路は、旧一条大路であり、平城京から左京への神社仏閣への参詣道として賑った路でもあったろう。そんな佐保路一帯は、長屋王をはじめとした貴人達の別荘があったところで、長屋王の別荘には大伴旅人・山上憶良・山部赤人らの多くの知識人や文人が集まったといわれる。さらに、長屋王と敵対関係にあった藤原宇合さえ「蘭をぬらす白露、未だ臭(う)を催(うながさ)ね、菊にうかべる丹霞(たんか)、自ずからにおひ有り」と庭の美しさを讃えたという。そんな、宇合が、神亀6年(729)2月、突如謀反の疑いで、長屋王邸を包囲し、妻や王子達とともに自殺させてしまう「長屋王の変」が起こる。これにより、藤原不比等を長とする4人の子一族の権力が強まり、娘・光明子を皇后につけ、不比等の四子を中心とした体制が出来上がった。
長屋王ゆかりの佐保路だが、更に長屋王を死に追いやった一因の光明子発願の法華寺、更には、平安京への遷都後、再び平城京に戻そうとした平城上皇ゆかりの不退寺など、それぞれの歴史を感じる路である。
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今は、花の寺特にコスモス寺として有名な般若寺だが、その歴史は苦難に充ちたものある事をしる。その歴史は古く、飛鳥時代に高句麗の僧・慧灌(えかん)法師によって開創され、天平18年(746)に聖武天皇が般若寺に大般若経を奉納し卒塔婆を建立、鬼門鎮護の寺と定められた。又、平安時代の寛平7年(895)頃には、観賢僧正が学僧千余人を集めて、学問道場の基を築き繁栄していったが、治承4年(1180)のの南都焼討にあい伽藍は全て焼失してしまった。しかし、鎌倉時代以降は、徐々に復興されて、真言律宗第一の根本道場と定められた。その後も、室町時代から戦国時代にかけ度々の戦火にあうという運命を辿る。これは、京都ー奈良街道の峠付近にあることから軍事的要塞地になりうることから、争奪の場ともなってしまったためであろう。しかし最も厳しかったのが、明治になってからの廃仏毀釈の運動で、寺としての存続が出来ない無住の寺になってしまった。この間、寺地は無断で切り売りされ、客殿さえ切り売りされてしまったというから驚く。そんな退廃してしまった般若寺を、西大寺の良光師が再興を図ってきたという。
そんな歴史を感じることが出来ない小さな感じの般若寺であった。バス停から数分歩くと、なにやら由緒ある楼門が見えてきた。この楼門をくぐるのかと思ったら、入口は少し先にあった。それにしても、道路脇に何気なく建つ楼門が国宝と知り、いささか驚いてしまった。鎌倉時代の再興期のもので、幸い戦火の影響なく残ってきたのも奇跡に近い。
境内に入ると、石仏が並んでいるのに気がつく。西国三十三所観音立像の一部で本堂周りや境内に散在している。江戸時代の元禄の頃のもだそうだが、こうした三十三所巡りを出来るようなところは多く見受ける。身体の不自由な人などの為に考えられたものだろうが、素朴な信仰の場という気がする。
歴史ある古刹にしては、狭い境内だが、明治時代以降の荒廃を知り理解は出来たが、立派な楼門を見ているとやはりアンバランスの感は拭えない。
境内中央に立派な、十三重石宝塔が建つ。こうした石塔を見るのは初めてだ。現存の塔は、建長5年(1252)頃の建立という。四方仏として、薬師(東)・阿弥陀(西)・釈迦(南)・弥勒(北)が祀られている。
本堂内には、本尊の文殊菩薩騎獅像が中心に安置され、堂内も決して広くはなく、街中のお寺さんという感じであった。
般若寺を訪れたのが、3月も下旬で、木蓮の花が境内の中で、際立っていたのが印象的であった。
般若寺の前に牧場の店があり、そこで牛乳を飲む。3月末とはいえ、この日は暖かく、汗ばむような日であったので一気に飲み干してしまう。般若寺から車道をはずれた路を進むと、田園風景そのものの光景となる。如何にも昔の道を歩いているかのように感じる。途中、七つ石と云われる所に小さな祠があった。
やがて、奈良ドリームランドの施設が見えてくる。神奈川・大船のドリームランドは閉園したはずだが、奈良は未だ続いているようだ。しかし、あまり客の姿が見えない。ドリームランド沿いに道を下り、横道に入ると天平時代創建といわれる興福院(こんぷいん)に着くが、予約していないので拝観できず、山門を横に見つつ、一条通に出る。小堀遠州作といわれる庭園が美しいと云われる。
一条通を進むとJR関西線の踏切となる。踏切を越え、北に上ると不退寺に至る。不退寺は、平城上皇が余生を送った萱御所を、その孫にあたる在原行平、業平らが祖父上皇の追善のため寺にしたと云われる。長岡京から平安京遷都を行った桓武天皇の子であった平城天皇は大同元年(806)に即位したが、皇太子時代から藤原薬子との関係が続き、更に精神不安定の状況が続き、僅か3年後の大同4年(809)に弟の嵯峨天皇に譲位してしまう。譲位後、平城京に戻り、健康が回復してきたことにより、嵯峨天皇の政治に介入するようになり、ついに平城京への再遷都を命ずるまでに至った。これに対し、嵯峨天皇は、上皇の側近藤原仲成(薬子の兄)を捕らえ、薬子の官位を剥奪したことにより、平城上皇が兵を挙げようとしたが阻止され、仲成は射殺、薬子は毒を仰いで死んでしまう。平城上皇は、剃髪し出家してしまう。そういえば、上皇の皇子・阿保親王の御陵が芦屋にあったのを思い出す。阿保親王の子が在原行平・業平であり、特に業平は、「伊勢物語」が有名で、芦屋を舞台にした物語もある。そんな業平ゆかりの寺を奈良で出会うのも面白いし、京都の十輪寺にも業平晩年の地といわれている。考えてみれば、交通機関の発達していない昔の事だが、結構行動範囲が広い事を改めて感じる。
本堂は、寄棟造り、業平格子が美しい。
境内は、本堂と多宝塔に木や花々に埋もれた庭という質素な造りで、創建当時の隆盛を思い浮かべようもない境内だが、レンギョウの黄色い花が鮮やか映えている。
再び一条通に戻り、更に西に向かって進むと法華寺がある。法華寺は、藤原不比等の邸宅だったのを、未亡人の橘三千代が住み、三千代も亡くなったのち、娘の光明子が、両親の菩提を弔うため総国分寺尼寺として創建された由緒ある古刹である。
藤原不比等の娘・光明子は、天皇家と藤原家の姻戚関係を結ぶ政略的な思惑で、後の聖武天皇となる皇太子首の后となり、更に、光明子を皇后として即位させるべく長屋王との政争に発展していく事になる。このような立場ということは理解していたであろう光明子は、一体どのような思いで、長屋王との政争、そして長屋王の死、さらに兄弟を中心とした政治体制という時代の流れを見ていたのであろうか。そんな思いの結果が、晩年の光明皇后の逸話として残っているのだろうか。伝承として、千人施浴の願をたて、自ら病人の垢を掻き、阿閦仏の化身であった千人目の癩者の膿汁をその唇で吸ったというものだ。事実かどうか別にして、病人への治癒対策を講じてはいたのだろう。そんな姿が、治癒を受けた民衆によって、伝説化されたのかもしれない。
創建当初の法華寺は、豪壮なものであった事は容易に想像がつくが、今は、はるかに規模の小さな堂宇となってしまったが、如何にも尼寺らしい清楚な雰囲気が漂っている。本堂は、慶長6年(1602)に豊臣秀頼と淀君によって再建されたものだが、淀君は、京都・大原の寂光院の再建にも尽くしているのも興味深い。本尊の十一面観音菩薩像は、光明皇后がモデルとも云われているが、先の伝承と絡めての話として伝わっているのだろう。
浴室は、室町時代後期に改築されたものだが、光明皇后が薬草を煎じその蒸気で難病者を救済したところと伝わる。
又、創建当初は、金堂・講堂・東西両塔・阿弥陀浄土院という壮大な堂宇であったが、今はその姿を思い浮かべるのも難しい。京都などの古刹であれば、堂宇など残っていなくてもその寺域などが掴めたが、奈良ではそれさえ難しい。やはり、残された都の哀れさがこのような所にもあるのだろう。
境内に植えられている桜も早開花している一方、片隅に咲くボケの花が咲き、更に東庭園には、四季折々に咲く草花や木が眼を楽しませてくれる。
法華寺から北へ少し上ると海龍王寺となる。平城京の東北隅にあるところから「隅寺」とも呼ばれていたといい、天平3年(731)に光明皇后の発願によって創建されたという。海龍王寺とは、珍しい寺名と思ったが、それは、遣唐使の一行に加わった僧・玄昉が帰京するとき、玄昉が乗っていた船だけが暴風の中助かった。この嵐の中、玄昉は、海龍王教を唱え、九死に一生を得たとも云われていて、その後、隅寺に住する事になったという。
奈良時代の西金堂内には、高さ4mの国宝五重小塔がある。この五重塔は、薬師寺東塔と同じ様式。天平建築手法を知る貴重なもの。
そんな云われのある海龍王寺も、これまで見てきた寺院のように、当初は、大きな伽藍を持っていたが、その後衰退により、本堂の他、奈良時代の西金堂と鎌倉時代後期の経蔵のみとなってしまっている。
境内には、ユキヤナギが咲き誇り、中国名の噴雪花そのものである。
近鉄西大寺駅からバスで秋篠寺に向かう。先日の佐保路散策では、秋篠寺まで足が延ばせなかったので、別の日に行くことにした。
秋篠寺は、奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により薬師如来を本尊とし、僧正善珠大徳により開基され、次代桓武天皇に勅願が引き継がれ、平安遷都とほぼ同じ時期に完成したという。創建当時は、法相宗であったが、平安時代以降真言宗に転じ、今では単立宗となっている。秋篠氏とは、もとは渡来人で、朝廷に改姓を願いで賜った姓である。桓武天皇の母は、百済王氏の出の高野新笠だったこともあり、桓武天皇は積極的に渡来人を登用したという。平安京遷都の際の秦氏との連携などは、その事を物語る一つであろう。
しかし、秋篠寺の創建に今一つの異説があるという。それは、光仁天皇の后で皇后となった井上内親王と皇太子の他戸皇子が「天皇呪詛」という罪を着せられ殺されてしまう。その結果、高野新笠との間の子が桓武天皇として即位した経緯があり、その政争で殺された井上内親王の怨念を鎮魂するために創られたともいう。光仁天皇は、それまで100年続いた天武系から天智系に切り替わって初めて即位した天皇であったことも、これらの政争の大きな背景になっていたのではないだろうか。
創建当初の秋篠寺は、規模も大きく、東西に二つの塔や金堂など数々の堂宇のある壮麗な寺だったが保延元年(1135)の大火で、その殆どが焼失し、講堂の一部のみが残り、鎌倉時代に、それを改修し現在の本堂となった。
現在の本堂は、国宝になっているが、鎌倉時代の改修ではあるが、奈良時代の様式を残しているという。
本堂内は暗いなか、本尊の薬師如来像の他真言宗でもあった事が示す愛染明王や不動明王など多くの仏像が安置されている。その中で秋篠寺を有名にしているのが「伎芸天」で、伎芸天は、大自在天の髪際から化生したといわれる天女で、衆生の福徳と芸能を守護する。大自在天は、ヒンドゥー教のシバ神の異名だそうだ。この伎芸天は、日本には秋篠寺にしかないという。
秋篠寺の周囲は、明るい雑木林で、その地面には、苔が覆う。しかし、明るい緑が映えるような苔庭だ。