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御霊神社の鳥居、その手前を江ノ電が通る

八雲神社参道

御霊神社

大宝寺境内にある多福明神社。明治の神仏分離政策がとられたが、お寺の境内にそのまま、社が残っているのは珍しい。

大宝寺。佐竹氏屋敷跡の石碑が、入り口にある。裏の山には、新羅三郎義光の墓と伝えられるものもあるが、後世のものである。

時宗「産ノ井」

甘縄神明社の本殿。この高台から由比ガ浜が一望できる。

辻の薬師堂

甘縄神社

古都を歩く  鎌倉編

原始時代から鎌倉の地は、温暖な気候に恵まれ、丘陵部からは、旧石器時代の遺跡が確認されている。その後の縄文・弥生時代の遺跡も多数分布されているところから、多くの人々が生活するうえで適した地であったといえる。奈良・平安時代に入り、丘陵地から平野部にも進出するようになり、8〜10世紀にかけて大規模な建物・倉庫郡が確認された事から、この地に郡の中心政庁(郡衙)がおかれていたと考えられる。天平7年(725)、相模国の国司が朝廷に送った文書には、「鎌倉郡鎌倉郷」の名があり、郷は50戸の単位であるから、人口1500人を超す町であったと推測されている。更に、平安時代になり益々鎌倉の地が賑っていったと思われる。
元々関東の地に根をおろしたのが、桓武平氏の流れを汲む一族が中心であった。平氏の姓を賜る平高望に始る。5人の息子を伴って関東の地に土着した高望は、上総の国を本拠とし、長男国香は常陸の国石田の荘(茨城県真壁郡)、次男良兼は下総の国、三男良将は鎮守府将軍として下総国豊田の荘(茨城県結城郡)を、四男良茂は常陸国水守郷(茨城県つくば市)を、五男良文は村岡五郎と名乗り、三説あるが、下総国村岡(茨城県結城郡)を、それぞれが本拠としていた。その後、承平5年(935)に良将の子将門が、伯父国香との戦いで国香を殺すという同族の争いが起り、一時は関東を席巻した将門も、天慶3年(940)に征東将軍に任じられた藤原忠文や国香の長男貞盛らにより討たれる。そして、長元元年(1028)に村岡五郎良文の孫・忠常が下総にて乱を起こし、同族の平直方に追討の命が下るものの乱を鎮圧できず追討の任が解かれ、長元3年(1031)、源頼信に追討の命となり、忠常は降伏し乱が鎮まる。乱の平定が行えなかった平直方は、桓武平氏の嫡男国香の流れをくむものであったが、この一件で、平家嫡宗家が、伊勢平氏を称する西国に勢力をはっていた平氏に代わっていった。この結果、東国に残った庶子家の平氏一族は、次第に分流し、嫡宗家との関係が希薄になっていった。後に、頼朝の有力御家人にこれらの平氏庶子の分流である梶原・和田・千葉・上総・畠山、三浦などの豪族となるのも歴史上の運命といえる。又、当時鎌倉に邸を持っていた平直方が頼義の武勇に感心して自分の娘を与え、鎌倉の邸も共に譲ったという(この屋敷は、後の寿福寺)。以後、鎌倉は代々源氏に伝えられた。その後、永承6年(1051)東北・安倍氏の反乱が起こり(「前九年の役」)その鎮圧に源頼義・義家親子が派遣された。一度は鎮圧されたものの、再び安倍氏の鎮圧に協力した清原氏が反乱したのが永保3年(1083)、義家が再び介入したものの3年かかり「後3年の役」と云われている。この「前九年の役」、「後3年の役」で活躍したのが、所謂「坂東武者」と呼ばれる人達であり、これらによって、源氏と坂東武者の強いつながりが出来たと云われている。特に、「後3年の役」では、朝廷から褒賞が与えられず、義家自らのをもって武者達に褒賞を与えたという。このような経緯から、源氏と坂東武者とのつながりが強くなったといわれるし、頼義や義家も館や神社などの寄進を行ったのが鎌倉の地であり、鎌倉が大きく変貌する素地になった。

染谷太郎太夫時忠

御霊神社本殿

江ノ電の極楽寺坂トンネルの鎌倉側手前に「御霊神社」がある。同じ名の御霊神社は、京都にもあるが、意味合いが異なる。京都の御霊神社は、あらぶる御霊を鎮める為で、その祭神は、かっての政争などで敗れた人達、例えば、桓武天皇時代の早良親王や菅原道真といった非業の最期となった人達である。しかし、ここ鎌倉の御霊神社は、京都のそれとは逆で、鎌倉権五郎景政を祀っている。鎌倉氏は、平家の末裔の一つで、平高望の子、良茂を祖とし、大きく鎌倉氏と三浦氏に分かれていく。景政の父・景成から鎌倉氏を名乗っている事から、その頃から鎌倉を拠点とした一族であったと思われる。鎌倉氏の代に、後の梶原氏や大庭氏が出てきて、鎌倉周辺を中心とした勢力になっている事が分かる。この鎌倉権五郎景政には、勇壮な逸話が残っている。それは、景政16歳の時、源義家に従い「後三年の役」(1083〜87)において活躍していたが、敵の射た矢が、景政の右目に刺さったまま、矢を射た敵将を倒した。更に、陣地に戻った後、従兄弟にあたる三浦平太郎為次が足で顔をおさえて、右目に刺さった矢をぬこうとした。これに対し、景政は、倒れた状態で為次を刺そうとした。驚いた為次が、理由を尋ねると、「弓矢で死ぬのは武士の本望だが、顔を土足で踏まれるのは、武士の恥である」とこたえた。その為、為次は、膝で顔を抑えて矢を抜いたという。当時の武将の心意気を表すものであろう。この景政の武勇伝が広く伝わり、後霊神社に祀られる事になったものであろう。
御霊神社の創建当初は、御霊ではなく、相模平氏を祀る五霊であったという。相模五平氏とは、村岡・鎌倉・大庭・梶原・長尾の五氏であり、相模平野をおさえていた。一方、相模の北側に広がる武蔵は、秩父平氏の一族が抑え、房総半島には、同じ平氏の流れの千葉氏一族がいた。結局、頼朝が旗揚げを行い、一旦破れ房総半島に逃れ、北上していくわけだが、その頼朝を支えた武将達は、これら平氏一族の末裔達であることを思うと、歴史の不思議さを感じさせる。
武者として豪壮だったと伝わる景政を祀る社だかだろうか、木々に覆われ、山に囲まれた地ではあるが、何となく明るさを感じさせてくれる。或は、参道を横切るかのように走る江ノ電が、華やかさを演出しているのかもしれない。

八雲神社の本殿

元八幡の本殿

妙法寺前の小路を南下した所に「八雲神社」がある。後3年の役で苦戦している兄・義家を助ける為、弟の新羅三郎義光が、鎌倉に立ち寄った時、京都の祇園社の祭神を勧請したのが始りと云われている。又、義光の子孫佐竹氏が一族の霊嗣を相殿に分祀していたので、佐竹天王社とも云われていた。このような事から、八雲神社の裏の山を祇園山と呼ぶが、逆側からは佐竹山と呼ばれている。いかにも古い社の趣があり、本殿の隣には宝物館が置かれ、江戸時代後期の作である神輿などが置かれている。
大宝寺
八雲神社の山を越えたところに「大宝寺」があるが、この地はかっての義光の子孫佐竹義盛が、応永6年(1399)に自邸のそばに建てた多福寺が前身と云われている。後3年の役で大功をたてた義光が、日頃から信仰していたという多福稲荷大明神のおかげということで、義光が館のの傍にたてた多福明神がも境内にまつられている。

元八幡

源氏と鎌倉のつながりの第一段が「元八幡」だろう。鶴岡八幡宮の一の鳥居の東側、辻の薬師堂の西側に位置するのが、「元八幡」。源頼義が前九年の役(1052〜62)で、奥州の安倍頼時・貞任父子を討って京へ帰る途中の康平6年(1063)に鎌倉に立ち寄り、由井郷の鶴岡のこの地に、京都の岩清水八幡宮に戦勝を祈願してかなえられたもので、その祭神を勧請したと云われている。頼義の子義家は、後3年の役(1083〜87)で奥州へ行く途中の永保元年(1081)に参詣して社殿を修理し、源氏の氏神として信仰されてきたという。その後、鎌倉に居を構えた頼朝が、治承4年(1180)現在の鶴岡八幡宮へ社殿を移した事により、元八幡と呼ぶようになった。正式には、鶴岡由井若宮という。それだけ、謂れのある元八幡は、思っていたより小さな社であった。周囲は民家に囲まれた、さほど広くない境内だが、木々も多く、しばし憩いの場となる。

八雲神社

日蓮宗「本興寺」。日蓮の弟子天目が建てた堂が始りと云われている。門前には、「日蓮上人地辻説法跡の霊跡」の碑が建っている。日蓮の辻説法跡は、この地から小町大路を北上した所にもあるが、記録では、日蓮が辻説法したとの記述は残っていないという。

小町大路を南下し、横須賀線の踏み切り手前に「辻の薬師堂」と呼ばれる小さな堂がある。奈良時代の神亀年間(724〜29)に、染谷太郎時忠によって開かれた長善寺の塔頭であったと伝えられる。長善寺は、横須賀線開通時に本堂が取り壊され廃寺となり、薬師堂だけが残った。この薬師堂には、薬師如来立像と脇侍の日光・月光菩薩像、十二神将像が安置されていたが、今は、鎌倉国宝館の所蔵になっている。辻というのは、四つ角の事で、古くは、小町大路と交差する大路が通っていたらしい。この小町大路と交差していたのが、古東海道ではなかったのであろうか。今は、直ぐ横を横須賀線が通り、ホツンと佇むようなお堂のみで、往時を偲ぶものなどないが、多くの人が、行き来していたのであろう。その伝承として、日蓮が辻説法した跡という地に「本興寺」が、この薬師堂の前にある。

参道脇にある安達盛長屋敷跡の石碑

甘縄神明社の参道。この平地に安達氏の屋敷があったと伝えられる。

染谷太郎時忠屋敷跡から、長谷寺に向かう間に、甘縄神明社がある。神社の略誌によると、和銅3年(710)に、染谷太郎時忠が創建とある。或は、行基が創建という話もあるようだが、行基が東国を訪れた事はないので、この謂れは誤りだろう。しかし、それだけ由緒ある神社であることを伝えたかった思いの表れかもしれない。それにしても、甘縄という名前が面白い。これには、「和(あまな)う」、縄張りを甘くする、緩めるという意味があるそうで、時忠が先住民との融和政策をとる意味で、この神社を創建したという主旨には理解できる。しかし、祭神は天照大神であり、平城朝の権力を示す事を忘れていない。更に、約300年後の永保元年(1081)に、源義家が社の再建をしたとある。これは、源頼義が、甘縄神社に詣で、平直方の女との間で、八幡太郎義家を得たという伝えからきているものであろう。こうして、甘縄神明社と源氏との関りが出来、後に、源頼朝や政子・実朝などが参詣に訪れたという。又、頼朝の決起以来の側近、安達盛長は、この神社の前に屋敷を構えたというが、当時、この近くまで海が迫っていたという事から、実際は、違った場所ではなかったかという説もあるようだが、頼朝の側近で、後に北条氏と強い関係になった名門安達氏と縁がある事で、甘縄神明社の重要性を恣意する話でもあるかもしれない。更に、北条時宗が産まれたのが、安達屋敷で、その産湯と伝わる「時宗産ノ井」が、石段上り口の左側にある。

江ノ電「由比ガ浜」駅から大町大路へ出る道脇に、染谷太郎太夫時忠屋敷跡の碑がある。今や石碑の文字も十分に読めない感じだが、碑には、次のように記されている。「染谷太郎時忠は藤原鎌足の公孫に当たり、南都東大寺良弁僧正の父にして文武天皇の御宇より聖武天皇の神亀年中(726〜728)に至る間、鎌倉に居住し東八カ国の総追補使となり、東夷を鎮め、いちに由井長者の称ありと伝えらるるも、其事跡詳ならず。この辺りの南方に長者久保の遺名あるは彼の邸跡と唱えられる。尚、甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしという。」とあるこの由井長者から、南に拡がる浜を「由比ガ浜」と云うようになった。染谷太郎時忠にまつわる伝説として、「塔の辻」という地名に関るものがある。時忠に3歳になる子がいたが、鷲につかまり方々を探し回った所、諸所に肉や骨が落ちていたという。これらの地点に供養の石塔を建てたという。この石塔があるところを「塔の辻」と呼ぶようになったという。その一つが、「由比ガ浜」駅と「和田塚」駅の中間位に位置する鎌倉彫の店「寸松堂」近辺と云われている。この伝説は、時忠が征東の役目で来ていた事を考えれば、元もとの先住民との争いの結果として、子供が犠牲になったという事かもしれない。この頃の日本は、律令制度を全国に徹底するため九州から東北まで、その支配を固めていた時期でもあり、先住民との諍いは絶えなかったと思われる。そうした中での悲劇でもあったかもしれない。
奈良時代の後半から鎌倉の地が、東への戦略拠点であったという点が面白い。この時代の古東海道が、足柄峠を越え、この鎌倉から三浦半島を抜け房総半島に渡るのが一般ルートであったのかもしれないと考えると、鎌倉の地理的要因から拠点になる事は、容易に肯ける。

染谷太郎太夫時忠邸宅跡碑

鎌倉と源氏