南武線武蔵小杉駅
東急東横線武蔵小杉駅
南武線と東横線が交差する武蔵小杉は、現在では交通の要所として賑っている。この小杉駅近くで幼少の時代を過していたのだが、余り記憶が定かでない。家は小杉駅と綱島街道の間の街道側にあったが、今はすっかり当時の面影はなく、近くを通る南武沿線道と綱島街道によりビルやマンションといった建物となってしまっている。確か、小さな堀があったと思うが、それも路となってしまっている。
南武線や東横線が開通するまでは、町の中心は中原街道沿いだったようだが、今は、武蔵小杉駅や東横線の新丸子駅周辺が、繁華街となってしまっている。
丸子橋
東横線丸子橋
東京・虎ノ門を起点とした中原街道は、丸子の渡しで多摩川を渡り、川崎市に入るが、現東急東横線の架橋は、大正15年(1926)であり、丸子橋の工事着工が昭和7年(1932)、竣工が昭和9年(1934)12月であった。これは、上流の二子橋や下流の六郷橋に比べると遅かった。やっと完成した橋も老朽化が進み、平成13年(2001)に新しく架け替えられた。丸子橋を渡った道は、今は、主要道は綱島街道の感がある。中原街道は、多摩川沿いに西方向に進む。かって東海道が整備されるまでは、相模から江戸への街道であり、徳川家康もこの道を通、天正18年(1590)江戸に入府し、この途中の平塚・中原で鷹狩りをしたと伝えられる。この中原から中原街道と呼ばれるようになった。
多摩川も丸子橋から、流れの方向が急に南方向に変る地点だ。その地点であった丸子の渡しは、武蔵風土記稿によると『船4艘をもって常に往来の人わたせり・・』とある。
丸子橋付近は、夏の川遊びの地であった。又、花火大会も盛大であった事も思い出される。
橋脚の下から6世紀のものと思われる丸子古墳の跡が発見され、剣や埴輪が出土したという。
丸子という地名は、川に関係ある渡船場に従事する守子衆のことで、モリコがマリコに訛ったという。その守子衆が荘園を開き、その荘名が中世に上・中・下丸子村に分かれたという。下丸子は東京側にあることから、かって多摩川の流路が今より西側にずれていたのが、流路が変り、上・中丸子が川崎側、下丸子が東京側となったと思われる。現在「上丸子」は、上丸子天神町、上丸子八幡町、新丸子町、新丸子東町、丸子通り町、上丸子山王町と区分されている。
丸子の地名は古く、『吾妻鏡』に治承4年(1180)に「丸子荘」として出てくる。この丸子荘は、現在の平間までを含む多摩川下流地域の荘園であった。その後応安5年(1372)の円覚寺の文書に「丸子保」と記載され、文明9年(1477)の文書には「武州稲毛荘鞠子郷」とあり、稲毛荘に取り込まれた事が分かる。文明10年(1478)には、太田道灌が」丸子城小机城に籠もる云々」とか文明18年(1486)道灌准后が「丸子の里にて読める歌」として、「東路のまりこの里に行かかり、あしもやすめずいそぐ暮れかな」という記録も残っている。
参道
本殿
東海道新幹線の東側、多摩川堤の近く「上丸子山王町」に日枝神社がある。丸子の地に日枝神社があることでも、丸子の地が古くから知られていた事が想像できる。日枝神社は、比叡山の麓「坂本」にある「日吉大社」が総本社となる。日枝神社の縁起によると、大同4年(809)に山王権現の分霊を奉じ、丸子に宮をつくったのが始まりというから、古い歴史を持つ。治承2年(1178)には、平重盛が、武蔵蔵人太夫を遣わし社殿を再建、徳川時代には、御朱印20石与えられた。明治になり、山王権現社から日枝神社と改称された。現在の本殿も、天文5年(1740)の建築で、関東大震災により倒壊し、昭和3年に再築された。
境内には、日吉大社境内の大神橋の一部や延宝8年(1680)の庚申塔などがある。
日枝神社から東海道新幹線のガードを潜った「上丸子八幡町」に大楽院がある。かって、今は多摩川堤内になってしまった大楽院の裏手に八幡宮があたという。今は、日枝神社に合祀されている。この事から、八幡町となった。大楽院は、真言宗豊山派であり、武蔵風土記稿によれば『真言宗・・長谷寺の末、日吉山神宮寺と号す、開山の年月伝えず・・・』とあるが、寺号からして、日枝神社とは深い関係であった事が分かる。
山門
境内・本堂
東横線「新丸子」駅の北側に上丸子天神町という地名があった。どこかに天神さまがあると思い探す。天神町の云われを調べると、この天神町に住む多くの人は、かって今は多摩川の堤内に居住していた人々が、大正9年から始められた多摩川の堤工事により移住させられたという。それまで住居していたのは「青木根集落」であり、そこに天満宮や武蔵風土記稿にも記されている「西蔵院」もあったが、移住と共に「天満宮」は、一度日枝神社に合祀されたものを、昭和の初めに再度町内に移したそうだ。かっての政府や軍の強行執権を知る話である。
天満宮
小杉は、現在の、小杉御殿町・小杉陣屋町・小杉町に町が分かれている。この小杉という地名の由来は、よく分かっていないようだが、15世紀初頭に移り住んだ土地の名を姓としたと伝える旧家の系図や、天文6年(1537)以前に小杉毘沙門に住み、のちに宮内に移ったという小田原北条氏の家臣の存在などから「小杉」の地名は、16世紀初頭以前に遡る事ができると思われている。又、室町期(14-16世紀)には、「小杉七軒」の伝承もあるという。江戸中期頃には、多摩川がこの地の北側を流れ、『川の水、南に流れて民家の田多く流失』したことも度々あり、享保10年(1725)には、田中休愚による大規模な流路変更の瀬替工事が行われた。この地のやや高台に中原街道が通り、街道際に小杉御殿町が拡がる。かって、小杉の中心地は、中原街道沿いにあり、映画館などもあった。子供の頃、上小田中(神地)から小杉御殿町も近いこともあり、正月になるとこの映画館に連れて来て貰った事を思い出す。何を観たかは思い出せないが、混雑した劇場内の雰囲気は思い出す。そんな小杉御殿町だったが、町の中心街は、南武線・東横線の小杉駅周辺へと変わっていった。
武蔵風土記稿によれば、『田多くして畑少なし、家数123軒・・村内に相模国中原街道貫けり、・・この村の開墾の初は伝えず・・・』とある。
等々力緑地に面した小杉御殿町に小杉神社がある。初冬の日訪れたが、風が吹くとイチョウの葉が雨粒のように舞い落ちる。本殿前で掃除をしていた人が苦笑いしながらイチョウの木を見上げていた。この社は、武蔵風土記稿にある『この社は正徳(1711-16)の頃までは村のはずれ多摩川の傍にありて、則村内成就院の持ちなりしが、多摩川の岸欠崩れ其の地を失いたれば、神明の社に合わせ祭れり』とある。等々力緑地がかっての多摩川の流路であり、小杉神社と等々力緑地の間を走る道が、かっての堤であったのであろう。
小杉神社から西丸子小学校方向に行くと、妙泉寺跡がある。妙泉寺は、二カ領用水を開いた小泉次太夫が工事の成功を祈念して開基した日蓮宗の寺であった。工事が無事終了した後、慶長17年(1612)に現川崎区に移し、今は碑が立つ跡地のみ残っている。武蔵風土記稿にも『日蓮、川崎妙遠寺末・・住僧なければ・・』とある。
江戸時代初期の慶長初期に二カ領用水開削のための陣屋がおかれ、同年13年(1608)に小杉仮御殿が造られ、将軍のお鷹狩りなどの御殿となり、寛永17年(1640)には新たな造りとして、一万二千坪の敷地に御殿が築かれていたという。しかし、東海道が主街道になったことにより、万治3年(1660)には、廃止されてしまった。西明寺の裏手に小さな稲荷社があり、そこがかっての御殿の御主殿跡とされている。御殿の前は、かっての城下町のように中原街道が「カギ」の道となっていて、今でも、直角に曲がる街道となっている。
小杉御殿 御主殿跡の稲荷社
中原街道の「カギ」道
参道入り口
参道
境内の弁財天
本堂
川崎の中でも歴史ある寺の一つといえる西明寺は、真言宗智山派の寺であり、中原街道の「カギ」道の所にある。参道入り口には、文政3年(1820)に立てられたという「大師遍照金剛」の石塔がそびえ、参道が続く。山門の両脇には、仁王像も安置されている。武蔵風土記稿によれば、『新義真言宗京都醍醐三宝院の末山なり、龍宿山と号せり、古くは二宿山とも云いえりと伝う、最明寺(北条)時頼入道の開基なりと伝う・・・寛永19年(1642)寺領十石の御朱印をたまわり・・・当寺元は郡内有馬村にあり、元弘の乱(1331)に鎌倉北条氏没落の後当村に鎌倉の浪人潜居してありしゆえ、そのゆかりをもって此村に移りしといえども・・』と伝承を伝えている。江戸時代以降、小杉御殿の横に位置して関係もあってか、御朱印を受けているし、近在に25の末寺を持っと云われた由緒ある寺である。明治、寺の本堂が小杉学舎が置かれ、この地区の学校の始まりとなっている。
大正15年に多摩川を越え東横線が横浜まで延伸され「上丸子駅」が造られた。更に、昭和2年に東横線と交差する南武鉄道が引かれ、府中街道との交差する所に「武蔵小杉駅」が造られた。更に、現在の駅近くに「グランド前駅」が設けられたり、昭和14年には、東横線と府中街道の交差する所に「工業都市駅」が設けられたりしたが、昭和28年に東横線と南武線の連絡駅が開設され、「工業都市駅」は廃止、昭和19年にはグランド前駅も武蔵小杉駅となって、現小杉駅周辺の駅整備が進められてきた。そして、今や、中原区の繁華街として、又行政の中心地として栄えている。更に、かってのグラウンドは、高層マンション街として建設が進んでいるし、横須賀線の新小杉駅も計画されているだけに、更に変貌を続けるであろう。