宿河原は、妻の実家のあるところだし、妻、子供達、更に妹が通った高校がある。そういう意味では、近親者にとってのなじみの土地である。小学校時代などは、宿河原駅で降り、今は閉園してしまった「向ヶ丘遊園地」へ向かったものだ。駅前は、すっかり様相を変えてしまったが、駅舎は当時とさほど変らない。
宿河原を、武蔵風土記稿では、『此処昔開墾の頃の村落なるにや、もとより多摩川の河原なれば宿河原を以村名とするならん駒井《(注)現在は、東京都狛江市にある地名》は地の続きし所となれば、当村もかの村の枝郷などにや・・当所も昔は此の川の北にありしや寛政年中の地図に照らして見れば、其の頃より今は水流そこはく北に移れり、旧流の跡は溜井の如く僅か20年あまりの変革かくのごときとは、200年前のこと思ひやるべし、戸数136 村内に散在せり 東西19町許、南北14町程 総て平地 陸田少なくして水田多し水利の便なりといえども水涯の村』とあり、かっては多摩川が現在の南側を流れ、狛江市につながる河原の地であった事が分かる。宿河原という地名は、河原の比較的広い土地にできた宿(集落)という説などあり、宿という字地もある。
妻が子供頃は、桃や梨の産地であり、田畑の広がった地も、今や宅地化されてしまい、往時を偲ぶものはないが、町中を貫く二カ領用水には、地元の努力で桜並木として整備され、遊歩道を散策する家族連れなどが楽しんでいる姿を見ることが出来る。
南武線「宿河原駅」
駅から南下し二カ領用水を渡ると、鎮守の八幡社がある。妻に云わせれば、この境内で夏の盆踊りなどが行われたというが、さほど広くない境内を見るとかってはもっと広い境内だったのかとも思う。
武蔵風土記稿によれば、『もと多摩川北岸に在りしが、川瀬北に移りて流失せり、故に観音堂を常照寺境内に移してしばらく其の跡へ社を建て、村の鎮守・・・』とあり、多摩川の氾濫によって移ったことが分かる。
山門
本堂
八幡宮の西側に常照寺がある。真言宗豊山派の末寺である。この寺には、紙本墨画着色・松寿弁財天図があり、市の文化財になっている旨の表記があった。
武蔵風土記稿によれは、『新義真言宗多摩群中野村宝仙寺末寺 雁楚山正幡院と号す 開山法印賢智は文徳2年(1502)4月化す。当山の開基の年代寺伝区々にして其実を知るべからず 宝徳元年(1449)4月とも 又康正3年(1457)とも明応6年(1497)4月ともいえり・・・』とある。何れが実か分からないが、室町時代の後期であると考えられる。
宿河原駅から南西の二カ領用水新川の近くに浄土宗・龍安寺がある。武蔵風土記稿によれば、『浄土宗多摩群世田谷領喜多見村慶元寺末無量山寿経院と号す 開山 空誉 文禄2年(1235)の起立なり』とあるが事実の程かどうか不明。山門を潜ると左手に武蔵風土記稿にも記されている鐘楼があったが、同じものかどうか確認できなかった。風土記稿には、毎月末にのみ戻ってくるという一夜地蔵の話も載っているが、その地蔵が、今でも残る地蔵像か不明であった。
山門
本堂
多摩川の宿河原堰の下流、堤外に治水興農の守護神として船島稲荷社がある。別名「くわ稲荷」とも呼ばれている。由来は、ある殿様の馬が病に倒れた折、この地の伯楽(馬医)が手当てし治したことに感謝し馬のわらぐつを奉納したことからという。以来、わらぐつを奉納しお願い事をすると叶うという言い伝えがある。今でも、社にわらぐつが奉じられていることからその信仰が続いている事を伺い知れる。社は度々の水害で流され壊されてしまったというが、地元住民の信仰心で都度再建されてきた。
このあたりは、かっては中の島といわれ、多摩川の中洲であり、そのなかの船島という地名も、元々多摩川の渡し船が集まったと所であるとか、島の地形船に似ているからとも云われている。
今は、稲荷社の傍に堤が作られ、そばに二カ領用水のせせらぎ館がある。
二カ領用水を東に下っていき、東名高速の近くに稲荷社があった。武蔵風土記稿にある『字宿にある子祠』だろうか。
更に二カ領用水を下ると徒然草の碑があった。徒然草の第百十五段に「宿河原という・・・」という文章があるそうで、その宿河原が、ここ宿河原というのではないかというものだ。興味のある説である。
そういえば、この近くに「新明国土教」という宗教団体がある。この宗教を興したのが、船島出身の元木佐吉氏で大正年代との事だ。何時も南武線に乗っている時に見える塔が気になっていたが、そんな背景があったとは知らなかった。
徒然草の碑
二カ領用水の宿河原取入れ口は、既にあった二カ領用水での水が不足し、全体的な水量を増やす必要があったことから、寛永6年(1629)に関東郡代伊奈忠治の手代筧助兵衛の指揮のもと完成したものであった。取り入れ口から、宿河原の町中を桜並木が続いている。約400本余りの桜の木は昭和33年から2回に分けて植えられたものだ。
昭和54年8月「緑の相談所」として開園された。園内には、噴水、水車、芝生広場、見本庭園、野草のこみちなどが整備されている。園内で採られた野菜なども販売されている。
宿河原の地形で面白いのは、一部突き出ている所があり、その一つが、久地と長尾に囲まれ、南端が多摩丘陵(現在緑ガ丘霊園の一部)になっている。丘陵へは急崖になっている。そこを上った所に「松寿弁財天」が祀られいる。かってこの地は、「下げ綱の松」と呼ばれる景勝地であった。老松があり、長尾・下作延・上作述・宿河原の境界でもあったという。豊臣秀吉が小田原城攻めのとき上杉の兵がこの松に綱をかけて降りたという伝承が残っている。或は、源頼朝の家臣稲毛三郎重成が、この松に綱をかけ兵を渡したなど松に綱をかけたという伝承が残る。
更に、多摩川氾濫で流された老女が、この松の白布を持ち助かったが欲心を出しこの白布を持ち帰ろうとすると、白布が白蛇に変身し、老女を飲み込もうとしたところ、老女が自分の欲心を詫び、助かったという。そして、そのお礼に祀った社が「松寿弁財天」だっという。江戸時代には、「宿河原の下げ綱の松」として有名になり、多くの参拝客が訪ねてきたという。そのため、多摩川の両岸には、多くの茶屋や旅籠が並んだという。しかし、これが風俗を乱す元として、幕府が老松を切ってしまったそうだ。
確かに、急崖をのぼり、見渡せば、武蔵野台地や遠く新宿の高層ビル街も見えるので、近場の景勝地として賑った事であろう。そして、この急崖は、登戸の方まで続いている地形から、かって多摩川が丘陵の麓を流れていただろう事を思うと何か不思議な気がする。
弁財天の社
社下から宿河原方向