安藤高季(あんどう・たかすえ) ?〜?

陸奥国津軽地方の豪族・安藤宗季(季久)の嫡男。幼名は犬法師。通称は五郎太郎。別称は師季。
生没年ともに不詳であるが、父の宗季が安藤一族の惣領・安藤季長との抗争に臨んだ正中2年(1325)9月には幼名を用いた譲り状を受けていることから、この頃はまだ若年であったと思われる。
元服して高季、のちには師季と名乗る。
元弘3年(1333)5月に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が新政に着手するに際して旧北条氏の所領がすべて没収されると、父が争論の末に勝ち得た蝦夷管領の代官職も棚上げにされたが、建武政権の陸奥守として陸奥国に入部した北畠顕家に従い、同年冬に鎌倉幕府残党の名越時如と足立高景が大光寺館に立て籠もると、北畠顕家の命を受けて曽我光高らと共にこれを鎮圧した(大光寺合戦)。
しかし、この戦功に対する恩賞が平賀郡上柏木郷のみで、高季の望む蝦夷管領代官職と旧領の安堵を得られなかったことに加え、建武元年(1334)の持寄城攻略における論功行賞でも安藤氏旧領の一部が南部師行の手に渡るなどしたため、建武政権に対して反感を募らせた。
建武2年(1335)、蜂起した北条時行を破った足利尊氏が鎌倉に入府して建武政権から離脱する動きを見せると、同年閏10月に至ってようやく顕家より旧領を安堵されたが、肝心の蝦夷管領代官職が安堵されなかったことから、建武3:延元元年(1336)に尊氏が光明天皇を立てて北朝を開くとこれに与した。
建武4:延元2年(1337)2月、石塔義房が尊氏から奥州総大将に任じられて多賀国府に入府すると、高季は義房より津軽の合戦奉行に任じられた。暦応4年(1341)から翌年にかけては義房の要請に応じ、曽我氏と連携して南部氏の根城(本城)を攻めている(三迫合戦)。