阿蘇惟堅(あそ・これかた) ?〜?

肥後国の阿蘇大宮司の支族・阿蘇惟前の子。新里氏を称し、阿蘇内記とも。母は阿蘇惟将の姉ともいわれる。
宗家である惟豊系に背いて薩摩国に亡命、島津氏に通じ、天正13年(1585)に島津氏が肥後国に侵攻したときにはその一手を務めて宗家を攻め、矢部城に拠り自ら大宮司を称した。
羽柴秀吉九州征伐には一時矢部城に籠もって抵抗したが、のち薩摩に奔って島津氏を頼った。
天正18年(1590)、宗家の幼主・阿蘇惟光に誓紙を入れて反逆の罪を詫び、薙髪して黒斎玄与と号した。以後は政治的野心を断って風雅の道に勤しみ、慶長元年(1596)には京に出て細川藤孝らと連歌興行に連なったりした。このときの上洛の記録が『玄与日記』として残っている。