千葉実胤(ちば・さねたね) ?〜?

千葉胤賢の子。千葉自胤の兄弟。通称は七郎か(『千葉大系図』では七郎は自胤とする)。千葉氏の惣領で下総国千葉城主であった千葉胤直の甥にあたる。妻は扇谷上杉顕房の女。
享徳3年(1454)の暮れに鎌倉公方(のち古河公方)の足利成氏と上杉一族の抗争(享徳の乱)が勃発すると、千葉氏家中でもこれに絡んで分裂内訌が激化し、康正元年(1455)8月に足利成氏に属す馬加康胤・原胤房の軍勢によって父の胤賢や惣領の胤直・宣胤父子らが滅ぼされると(多胡城・志摩城の戦い)、成氏と対立する上杉氏の支援を受け、自胤とともに下総国市川城に拠った。
幕府は実胤を千葉介(千葉氏の家督)として認めるとともに東常縁らを派遣して支援にあたらせ、この東氏らの活躍によって戦況は好転したが、翌康正2年(1456)1月、成氏が派遣した軍勢によって市川城を攻め落とされ、武蔵国へと落ち延びた(市川合戦)。『鎌倉大草子』は実胤が武蔵国石浜へ、自胤は同国赤塚へと落ち延びたとするが、逆とする見解もある。
以後は扇谷上杉氏や堀越公方・足利政知の庇護を受け、本国である下総国への復帰を目指したが、寛正元年(1460)4月には「困窮」していたことが知られており、寛正3年(1462)4月頃に家督を自胤に譲って隠退した。
のち、縁戚にあたる美濃国郡上郡の東氏を頼り、彼の地で没したという。