多胡(たこ)城・志摩(しま)城の戦い

関東管領職を家職とする山内上杉氏に対し、かねてより確執を抱いていた鎌倉公方・足利成氏は享徳3年(1454)の暮れに関東管領・上杉憲忠を謀殺するに至った。この事件を発端として上杉一派と鎌倉公方の対立が一気に表面化し、関東を二分しての全面抗争が勃発したのである(享徳の乱)。
この乱は関東管領の上杉氏一派と鎌倉公方の抗争であると同時に、その有力被官の諸家の内訌をも派生させることになる。すなわち、一族の惣領の大部分が幕府を後ろ盾とした上杉一派に与したのに対し、成氏は惣領家に不満を持つ分家・庶家らを支援することで諸家の分裂を図り、反惣領派を抱き込むことで自陣営に組み込んだのである。

この分裂抗争は、下総守護職を世襲する千葉氏にも波及した。
この頃の千葉氏内部では、家政の主導権をめぐって重臣の円城寺直重(別称を尚任か)と原胤房の対立が顕著となっており、上杉陣営に属した千葉氏惣領の千葉胤直と円城寺直重に対し、原胤房はその対抗策として胤直の叔父・馬加康胤を擁して成氏陣営に属すという構図となっていた。ちなみに原氏は千葉氏の庶流であり、胤房は胤直の又従兄弟にあたる。
享徳の乱が勃発して間もない享徳4年(=康正元年:1455)3月20日、成氏の支援を得た原胤房の軍勢が千葉胤直・宣胤父子の拠る千葉城を急襲した。この襲撃に胤直らは千葉城を逐われて千田庄の多胡(多古)城へ逃れると共に胤直の弟・千葉胤賢が志摩(嶋)城へ入り、上杉陣営からの来援に望みを託して抵抗を続けたのである。
4月になると幕府は駿河守護・今川範忠に鎌倉侵攻を命じて出陣させ、胤直父子・胤賢らもこれに呼応して成氏勢と戦った。閏4月には、成氏陣営からの降伏勧告に応じなかった胤直を将軍・足利義政が賞して太刀を与えているところにも、一族や家中内の対立に始まった抗争が、上杉陣営と成氏陣営に分裂しての代理戦争と化していたことを窺い知ることができる。
上杉陣営は5月上旬頃に常陸国より援兵を派遣しているが、成氏陣営も原胤房に加えて馬加康胤を差し向けた。この原・馬加の軍勢は2つの城を分断するように包囲を続け、8月12日に至って多胡城が馬加勢の攻撃によって落城し、宣胤と円城寺直重やその一族が戦死した。このとき宣胤はまだ12歳であったという。胤直は近辺の妙光寺に逃れているが、14日には志摩城も陥落し、この劣勢を受けて胤直は15日に妙光寺にて自害した。また胤賢は志摩城の陥落後に上総国武射郡の小堤城に逃れたが、9月7日に自害している。
この戦いで千葉氏嫡流を断絶させた馬加康胤が、実力で下総国千葉氏惣領の地位に就いたのである。

この後、上杉陣営は馬加系千葉氏に対抗して胤賢の遺児である千葉実胤・自胤兄弟を取り立てて千葉氏の再興を図り、この兄弟はのちに武蔵国に移ったことから武蔵国千葉氏と呼ばれ、2派の千葉氏に分裂することとなったのである。