畠山義統(はたけやま・よしむね) ?〜1497

能登守護・畠山義忠の嫡孫。畠山義有の子。左衛門佐。
永享9年(1437)頃に父・義有が戦死したために幼くして家督後継者に定められ、康正元年(1455)に祖父・義忠の後見のもと、在京したまま能登守護となった。
寛正元年(1460)に義忠が隠遁したため、名実共に能登畠山氏の当主となり、幕府御相伴衆に列した。
管領の畠山氏宗家の内紛では畠山持国義就派を支持、同年6月に義就が畠山政長と戦った際にも義就方に与している。
その経緯から、応仁の乱においては畠山政長と結ぶ細川勝元派(東軍)に対抗して、山名宗全・畠山義就らの西軍に属した。
乱が終息した文明9年(1477)に分国の能登国に下向、在国して守護支配の再編や強化に努め、戦国大名化の基礎を固めた。
長享2年(1488)には幕府の命によって加賀国に出兵して一向一揆と戦い、能登国における一向一揆の発生を未然に防いだ。
明応2年(1493)、越中国に走った前将軍・足利義稙を奉じて京都奪還を図るも、成功はしなかった。
明応6年(1497)8月20日、鹿島郡府中の守護館で死去した。法名は大寧寺殿大彦徳孫大禅定門。
義忠の影響を受けて風雅や文芸を愛好した大名であり、応仁の乱以後は義統の権威を頼って京都文化人の能登国への下向が多数見られたという。