本荘繁長(ほんじょう・しげなが) 1539〜1613

本荘房長の嫡子。幼名は千代猪丸。通称は弥次郎。越前守・大和守。妻は上杉(長尾)景信の妹。出家号は雨順斎全長。揚北衆。越後国岩船郡本庄(本荘)城主。
天文8年(1539)、伊達時宗丸入嗣問題によって派生した内紛のおりに父・房長が死去したが、房長の死後数日を経て生まれた。このときに叔父・小河長資に本庄城を奪われ、繁長は領内の耕雲寺で成長したという。
長じて天文20年(1550)に長資を討って本庄の地を回復し、天文22年(1552)に上杉謙信に謁した。
謙信に臣従して以来、関東出兵(越山)や川中島の合戦:第4回などで軍功があり、上洛を果たした謙信が永禄2年(1559)10月に帰国した際に諸将が太刀を献じているが、家臣の第2位に繁長の名がみえ、上杉家中における格の高さが窺える。
しかし永禄11年(1568)3月、謙信が越中国に出陣している隙を衝いて武田信玄と結んで越後国村上にて挙兵、謙信に敵対した(本荘繁長の乱)。
翌月より来攻した上杉勢との抗戦に努めるが、信玄は信濃・越後国境付近に兵を出すばかりで村上への援兵はなく、さらには同年の暮れより今川氏真の領国である駿河国への侵攻を開始したのである(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。ここに甲駿相三国同盟は破綻し、それまで信玄と結んでいた北条氏康も親上杉へと方針を転換した。このことによって孤立無援となった繁長は、陸奥国の伊達輝宗蘆名盛氏の仲介により、子・顕長を人質として出すことで永禄12年(1569)3月に謙信と講和した。
この最中の永禄11年12月までには出家したようであり、伊達氏に宛てた書状に出家号の「雨順斎全長」を用いている。
この背反を赦免されてはいるが上杉家中での地位を失うこととなり、天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』や天正5年(1577)の『上杉家家中名字尽手本』にも記載されておらず、謙信の在世中は逼塞していたようである。しかし天正6年(1578)3月の謙信没後に勃発した御館の乱では上杉景勝に与し、景勝が上杉氏の家督を相続すると繁長は揚北の重鎮となり、二男・千勝丸(のちの大宝寺義勝)を出羽国庄内の大宝寺義興の養子に送るなどして基盤を固め、北面の備えにあたった。天正16年(1588)8月には十五里ヶ原の合戦東禅寺義長を討ち、庄内を支配下においた。
天正19年(1591)頃、所領より離されて大和国西の京に蟄居する。これは天正18年(1590)9月に庄内で蜂起した一揆を繁長・義勝父子が扇動したものであるためとされているが、天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役出陣を契機に赦免され、父子ともに上杉氏に帰参した。同年の『文禄三年定納員数目録』によれば知行高は約3千2百石、軍役負担は192人半である。
慶長3年(1598)に上杉氏が陸奥国会津に移封の沙汰を受けると繁長も随従し、田村郡守山城主として1万石を領した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては老齢でありながらも福島城を死守し、伊達政宗軍の進撃を遮る活躍を見せた。しかし上杉氏が与力した西軍方が敗れたため、上杉氏は出羽国米沢30万石に減封となり、繁長の所領も3分の1に減らされた。
この関ヶ原の役の戦後処理において、繁長は景勝の使者として上洛している。
米沢への移封後は信夫郡福島城主(または城代)となった。
慶長18年(1613)12月20日没。享年75。法名は長楽寺殿開基傑伝長勝大居士。