石川久式(いしかわ・ひさのり) ?〜1575

備中国の国人領主。石川久智の子。通称は源左衛門。妻は三村家親の娘(三村元親の妹)。
永禄10年(1567)、家督を継いで備中国幸山(別称を甲山・高山)城主となる。
石川氏の属していた三村氏は同年の明禅寺合戦宇喜多直家に敗れて衰退していたが、宇喜多氏と毛利氏が交戦状態となると、義兄で三村氏当主の三村元親と共に毛利氏に属した。
元亀2年(1571)4月、毛利氏に従っての国外出征中に幸山城を尼子勝久に攻められて奪われたが、のちに毛利勢の支援を得て奪回している。
天正2年(1574)11月、三村元親が織田信長に属して毛利氏より離反すると久式もこれに応じた。しかし毛利・宇喜多勢による討伐(備中大兵乱)を受けることとなり、三村元親の拠る松山城の戦いでは副将格として入城しているが、落城に際して脱出。
居城の幸山城は既に陥落していたために阿波国の三好氏を頼って落ち延びようとしたが、家臣の裏切りによって居所を密告され、天正3年(1575)6月23日に毛利氏の追手によって討たれた。