岩松経家(いわまつ・つねいえ) ?〜1335

岩松政経の子。岩松氏祖・岩松時兼の曾孫にあたる。通称は三郎。下野五郎と称す。従五位下・兵部大輔。
岩松氏は新田氏の有力庶家で、上野国新田荘岩松郷を本貫地とする在地領主であるが、岩松氏祖の時兼が足利義純(足利氏2代・足利義兼の子で、のちに畠山氏の名跡を継いで源姓畠山氏祖となる)と新田義兼の娘との間に生まれたという経緯から、足利氏とも深い関係を有した。
正慶2:元弘3年(1333)5月、足利尊氏の意向を受けて新田義貞・足利千寿王丸(のちの足利義詮)の鎌倉幕府攻めに従軍して功を挙げ(鎌倉の戦い)、同年7月にはその恩賞として飛騨守護職や伊勢国笠間荘のほか、遠江・甲斐・陸奥国など11ヶ所に所領を得た。
同年6月に討幕の功をめぐって新田氏と足利氏が不仲となると、義貞は鎌倉を放棄して上洛するが、経家は鎌倉に留まり、同年12月より後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて関東の政務を執ることになった足利直義の下で関東廂番の二番頭人に任じられた。
建武2年(1335)7月、信濃国に潜伏していた北条時行が挙兵して鎌倉に攻め上がってきた際(中先代の乱)、武蔵国女影原に迎え撃つが、多くの一族と共に敗死した。