太田資正の二男。通称は源太。美濃守。常陸国柿岡・小田城主。
弘治3年(1557)3月に元服し、古河公方奉公衆の梶原氏の名跡を継いで梶原政景と名乗る。同時に古河公方・足利義氏に近侍した。
義氏は北条氏康の庇護を受けて下総国関宿に在城していたが、その氏康と敵対関係にあった長尾景虎(のちの上杉謙信)勢力によって包囲され、永禄4年(1561)7月に開城。この後の政景の動向は不詳であるが、父・資正の拠る武蔵国岩付城に戻ったとみられる。
永禄7年(1563)7月、北条氏に内応した兄・太田氏資が資正を逐って岩付城を乗っ取った際に捕えられたが、家臣の計らいによって脱出することができ、資正との合流を果たした。その後、資正とともに常陸国の佐竹義重のもとへ身を寄せ、以後は佐竹氏の客将として活躍した。
とくに永禄12年(1569)の手這坂の合戦においては、謀略を用いて小田氏治の本城である小田城を陥落させた恩賞としてこの城を与えられており、天正6年(1578)7月には、木田余城に拠った小田氏治を攻めて土浦に敗走させた。
慶長7年(1602)に佐竹氏が出羽国に移封する際には随行し、大曲城主となった。しかし、佐竹氏の本城選定にあたって他の家臣と対立したため出奔し、越前国の結城秀康に2千石で仕えた。