武蔵国岩付太田氏。太田資正の嫡男。梶原政景の実兄。通称は源五郎。妻は北条氏康の娘(長林院)。号は道也。
永禄7年(1564)7月23日、父・資正の不在を衝いてその居城である武蔵国岩付城を乗っ取って資正と弟の政景を追放し、北条氏康に臣従して岩付城を安堵された。
永禄8年(1565)3月に北条氏が簗田晴助の拠る下総国関宿城を攻めた際、先陣を仕って宿中まで攻め入っている(関宿城の戦い:その1)。
永禄10年(1567)8月、北条氏政に従って里見義弘の拠る上総国佐貫城への攻撃に従軍したが、迎撃を受けて撤退するなかの23日、殿軍を務めて戦死した(三船台の合戦)。享年26。生年を天文12年(1543)とする説もある。
氏資は永禄3年(1560)以前には婚姻していたとみられるが男子がなく、氏資亡き後の岩付太田氏には北条氏政三男の源五郎(国増丸)がその名跡を継承し、源五郎が戦死したのちにはその弟・十郎があとを継いで太田氏房と名乗った。