菊池一族。「肥前家」と呼ばれる菊池氏庶流の出自で、菊池重安の子。祖父の為安は菊池為邦の弟。別称を忠朝・政朝。書状などでは姓を「肥前」ともしており、肥前守を称す。
文亀4年(=永正元年:1504)2月に菊池氏宗家の当主・菊池能運が急死した際、その遺言によって宗家の家督を継承した。
しかし多数の家臣や国人領主らはこれに反発し、阿蘇惟長(菊池武経)を擁立。このため惟長や惟長を支援する大友親治と抗争になり、永正3年(1506)10月頃には大友氏によって派遣された軍勢に押し込まれた。これに対して政隆は田原親述・佐伯惟治や大聖院宗心(大友親治の従兄弟)といった大友宗家に反抗的な勢力と結ぶとともに、本陣を肥後国山本郡の内古閑城に移して抵抗した。
しかし劣勢を強いられ、永正4年(1507)8月までには玉名荘の石貫へと後退、さらには石貫からも退いて肥後国北部の筒ヶ岳に拠って抗戦するが、永正6年(1508)に大友氏重臣・朽網親満の軍勢によって捕えられ、同年8月に肥後国合志郡の安国寺で自害した。法名は天仙源居士。