菊池能運(きくち・よしゆき) 1482?〜1504

名の読みを「よしかず」とも。菊池重朝の嫡男。幼名は宮菊丸。初名は武運。従五位下・肥後守。肥後守護。
明応2年(1493)の父・重朝の死没によって、若年で菊池氏家督と肥後守護職を相続した。
明応8年(1499)3月、肥後国益城郡の豊福城にまで勢力を伸ばしていた球磨郡人吉城主・相良為続と豊福で戦って破った。
通説では文亀元年(1501)に大叔父にあたる宇土為光に居城・隈部城を攻められ、守護の地位を失って肥前国高来(島原)に逃れて有馬氏を頼ったとされているが、実際は重臣の隈部氏との不和から生じた同年5月の武力抗争(袈裟尾原の合戦)に敗れて高来に逐電したため、新たな菊池氏当主として宇土為光が家臣団によって擁立された、というのが真相のようである。
こののち、断続的に八代への侵攻を図っていた相良長毎と提携しつつ隈府帰還の機会を窺い、文亀3年(1503)8月に相良氏や城重岑らの助力で為光を逐って肥後守護の地位に復すると、為光に与した八代郡古麓城主・名和顕忠を攻めて翌文亀4年(=永正元年:1504)2月に降し、古麓城を相良氏に与えた。
しかしこの直後の2月15日、八代の岡城で急死した。23歳。法号は実相院儀天明綱。享年を26とする説もある。
嗣子がなかったため、又従兄弟の菊池政隆を家督とするように遺言したという。
熊本県菊池市の菊池神社所蔵の菊池能運肖像画は、重要文化財に指定されている。