肥後国の国人領主・相良為続の子。通称は太郎。初名を長輔。休也斎と号す。従五位下・宮内少輔・近江守。肥後国球磨郡人吉城主。
明応8年(1499)、父・為続より家督を譲られた。
父が放棄せざるを得なかった八代の奪還に意を注ぎ、八代郡古麓城主・名和顕忠とたびたび干戈を交えた。文亀元年(1501)5月の隈部忠直の謀叛(袈裟尾原の合戦)によって肥前国高来(島原)に亡命していた前肥後守護・菊池能運との関係を修復して共同戦線を張り、文亀3年(1503)8月には八代に出陣し、宇土為光に加担した名和氏を牽制するなどして能運の家督復帰に協力している。そして能運の復帰後には、その支援を得て古麓城を攻めて文亀4年(=永正元年:1504)2月に開城させ、悲願であった八代を勢力下に収め、肥後国球磨・葦北・八代の3郡を支配した。
しかしその直後に能運が急死し、その混乱に乗じて顕忠が宇土城を奪取して没落を免れたため、八代をめぐる名和氏との抗争は続けられたが、永正13年(1516)の暮れに大友義鑑の調停を受けて和睦している。
阿蘇氏の内訌には北朝方大宮司家を支援していたことが窺え、抗争に敗れて逃れてきた阿蘇惟長(菊池武経)やその子・惟前らを自領に保護している。
永正9年(1512)に家督を長子の長祇に譲り(一説には永正12年:1515)、高田・今出水に隠居しつつ後見を行った。休也斎と号し、永正14年(1517)に入道して加清と号す。
為続の『相良氏法度七ヶ条』を補完する『相良氏法度十三ヶ条』を制定した。
永正15年(1518)5月11日、今出水の館にて死没。57歳。法名は龍成寺大池蓮心。