相良為続(さがら・ためつぐ) 1447〜1500

肥後国の国人領主・相良長続の三男。通称は次郎三郎。初名は頼元。肥後守護・菊池為邦より一字を授けられて為続と名乗った。従五位下・左衛門尉。肥後国球磨郡人吉城主。
応仁元年(1467)に家督を継いだ。またこの年に応仁の乱が勃発しており、父・長続は東軍に属して上京したが、為続は長続没後の応仁2年(1468)5月までには大内氏を通して西軍に属していたと見られる。
文明7年(1474)より起こった薩摩国島津氏の内訌においては島津国久に与力し、文明8年(1478)に薩摩国牛屎院(うしくそいん)の割譲を受けた。
文明14年(1482)9月以後は肥前国八代郡の名和顕忠と対立したが、文明16年(1486)3月には名和氏の居城である古麓城を奪って八代郡を掌握した。長享元年(1487)には益城郡豊福にも侵攻、その勢力を伸張させた。
肥後守護・菊池氏との関係は概ね良好であったが、阿蘇氏の家督相続における内部闘争に際して為続が阿蘇惟乗を、菊池重朝(為邦の子)は惟家を支持したことを機に悪化することとなり、明応8年(1499)3月に菊池能運と豊福に戦って敗れた。
この敗戦によって豊福・八代を失い、勢力が衰退すると近隣の勢力も為続との誼を断ったため、為続は四面楚歌の苦境に立たされることとなった。これに対し、牛屎院を島津氏に返還すると共に家督を子の長毎に譲ることで状況の沈静化を図り、球磨・葦北の2郡の維持に努めた。
明応9年(1500)6月4日死去。54歳。法名は西華蓮船。
明応2年(1493)に領内の統治のため『相良氏法度七ヶ条』を定めた。また、連歌に長じた文人としても知られ、九州でただひとり『新撰菟玖波集』に入撰している。