吉良氏朝(きら・うじとも) 1543〜1603

陸奥国吉良氏の後裔で、武蔵国世田谷城主・吉良頼康の養子。従四位下・左兵衛佐。学翁斎と号す。
実父は遠江国見付城主の堀越(今川)六郎。当時の堀越氏で六郎を称した者に貞基と氏延がいるが、どちらが氏朝の父なのかは判然としない。母は北条氏綱の娘(山木大方)である。
堀越氏は天文6年(1537)に今川義元によって見付城を攻められて滅亡したとされており、氏朝は逃れて母の実家である北条氏の庇護を受けたものと思われる。
永禄3年(1560)12月に頼康が隠居するに際して養子に迎えられて吉良氏を継ぎ、これと併せて北条氏康の娘を室とした。養父の吉良頼康は北条氏綱が大永4年(1524)に武蔵国江戸に進出して以降にこれに属しており、天文8年(1539)に氏綱の娘を室に迎えている。氏朝は、母の姉の夫の家を継いだのである。
天正18年(1590)の小田原征伐に際しては上総国へと逃れ、戦後の同年8月に徳川家康が関東6ヶ国を得て入部するとこれに仕え、世田谷に1千2百余石を与えられたが、のちに所領を返上して隠居し、慶長8年(1603)9月6日に死去した。享年61。
子の氏広(のち頼久)は蒔田(まいた)と改姓して徳川氏に仕え、上総国の寺崎郷で1千百余石を与えられた。