吉良成高の子。初名は頼貞で、天文18年(1549)頃に頼康と改名した。従四位下・左兵衛佐。
南北朝時代に奥州管領を務めた吉良貞家の後裔。この陸奥国吉良氏は、嫡流か傍流かは不詳ながらも応永年間(1394〜1428)後期頃までには武蔵国荏原郡世田谷郷に移っていた足跡があり、文明12年(1480)11月28日付の太田道灌状に見える「吉良殿様」や、万里集九の著作『梅花無尽蔵』丙午(文明18年:1486)武蔵所作、丁未(文明19年:1487)武蔵所作の項に記されている「吉良閣下」が頼康の父・成高と目されており、世田谷郷や久良岐郡蒔田を領していたことから、「世田谷殿」「蒔田殿」とも称されていたことが知られる。
吉良氏は室町将軍家の足利氏に次ぐ家格の高い武家であるが、相模国小田原城主・北条氏綱が武蔵国の江戸に進出した大永4年(1524)以降にこれに属し、頼康は天文8年(1539)に氏綱の娘を妻としている。頼康の発給文書の初見は天文17年(1548)。
吉良氏は北条氏に厚く遇されたが、北条氏綱が行った鶴岡八幡宮の造営事業(天文元年〜9年:1532〜1540)に際しては天文2年(1533)に番匠(大工)や材木の調達に関わっていること、永禄元年(1558)4月に北条氏康が後ろ盾となって執り行われた古河公方・足利義氏の鶴岡八幡宮参詣において唐笠役として従っていること、頼康の発給文書のほとんどが領内の統治に係る判物等であって外交文書が見受けられないことなどから、その家格の高さゆえに北条氏の権威づけのために厚遇をもって温存されたと見られる。
また、永禄2年(1559)の『小田原衆(北条家)所領役帳』に吉良氏が記されていないことから軍役の負担は免除されていたと推察され、頼康自身は北条氏と対外勢力の抗争に関わることはなかったと見られるが、家臣の江戸氏や大平氏は北条氏麾下の軍事力として出陣を命じられており、吉良氏は実権のない傀儡の領主であったということがうかがえる。
永禄3年(1560)末頃に家督を養子の吉良氏朝に譲り、蒔田に移って蒔田の吉良と称された。一説にはこの翌年の永禄4年(1561)12月5日に没したという。