里見家臣。里見氏重臣・正木通綱の子(二男か)。通称は弥九郎。大膳亮。一説には姉または妹が主君・里見義堯の母であるという。
主家の里見氏が嫡流の里見義豊と庶家の里見実堯に分裂して天文2年(1533)7月に抗争(稲村城の戦い)を起こした際、父・通綱と兄・弥次郎が実堯に与して敗死したことを受けて家督を継承。以後は実堯の子・義堯を支え、翌天文3年(1534)4月に義堯が義豊を滅ぼして里見氏惣領に就いてのちは股肱の臣として重く用いられた。
戦上手として知られ、とくに槍術に長じて『槍大膳』の異名を持つ。
天文7年(1538)10月、里見義堯に従って国府台の合戦に出陣。
天文11年(1542)、上総国真里谷武田氏の内紛に乗じて勢力拡張を図る義堯の命を受けて上総国東部に侵攻、天文13年(1544)8月には上総国刈屋原の合戦で真里谷武田朝信を討って大多喜(小多喜)城を居城とし、以降、この時茂の系統は大多喜正木氏と称される。
永禄3年(1560)に義堯の拠る上総国久留里城が北条氏康の軍勢に攻囲されたときには義堯の意を受けて越後国の上杉謙信に援軍派遣の要請を行っており、謙信が同年9月より関東に侵攻(越山:その1)したことを受けて北条勢が退くと、直ちに下総国香取郡へ侵攻しており、ついで軍勢を内湾に転じて原胤貞の属城である臼井・小弓(生実)城を永禄4年(1561)1月に攻め落とし、さらには救援に駆けつけた千葉胤富の軍勢をも撃退している。
生没年不詳。永禄4年4月6日に没したとする説があるが、永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2では北条勢の先陣を突き崩す活躍を見せ、永禄10年(1567)8月の三船台の合戦においては伏兵を率いて北条勢をさんざんに打ち破ったとする史書もある。