本山茂宗(もとやま・しげむね) ?〜1555

土佐国の国人領主。本山養明の子。別称は清茂か。梅慶と号す。土佐国長岡郡本山城主。
清和源氏・吉良氏庶流八木氏の流れを汲むとされる本山氏は、この茂宗の頃には5千貫の所領を支配していたが、その大部分は生産力の高くない山間部であったため、平野部ならびに海港を目指して勢力の南進を図った。
永正5年(1508)5月、吾川郡弘岡城主・吉良宣忠や高岡郡蓮池城主・大平元国らと結んで長岡郡岡豊城主・長宗我部兼序を討った(岡豊城の戦い)が、永正15年(1518)には、土佐国司・一条房家の斡旋で兼序の遺児・長宗我部国親と表面上は和睦した。
大永7年(1527)頃までには土佐郡朝倉への侵出を果たしているが、勢力の拡大にともなって本城の本山城を子・茂辰に譲って自らは土佐郡朝倉城を拠城とし、天文9年(1540)には広岡城の吉良氏を滅ぼして勢力を広げ、天文13年(1544)には高岡郡に進出するなどして、浦戸湾から仁淀川流域に及ぶ支配圏を確立した。
天文24年(=弘治元年:1555)に死去。