応仁2年(1468)頃、土佐国長岡郡の岡豊城主・長宗我部文兼は応仁の乱の戦禍を避けて京から土佐国に下向してきた前関白・一条教房を自領に迎えたことで声望を高めたが、子の元門・雄親、孫の兼序と時代が下るに連れて驕りが目立つようになっていた。かねてからこれを快く思っておらず、また所領を接して緊張状態が高まっていた本山茂宗は、苗代の水争いで兼序が本山領の百姓を打ち殺したことを発端として長宗我部氏の本城である岡豊城攻めを企てたのである。
茂宗は、同様に兼序の横柄ぶりを憎んでいた吉良宣忠・大平元国・山田元義らの諸氏と結んで、永正5年(1508)5月に3千の軍勢で岡豊城を襲撃した。このとき、長宗我部方の兵力は5百から6百程度であったという。
兼序は、城中にあって敵に攻撃をかけられるのは武門の恥として5百余の兵を率いて出陣、緒戦こそは本山連合軍を岩清水川(現在の国分川)に誘うなど、地の利を活かして辛くも撃退したが、兵力の差を覆すことはできずにやがては城に追い籠められた。
本山らの連合軍は岡豊城を包囲し、新手の兵を投入して攻めたために城中では兵糧も尽き、援兵もなく、討死を覚悟した兼序は、5歳になっていた嫡子・千雄丸(のちの長宗我部国親)や重臣の子息や親族ら150人ほどを城から落として一条房家(一条教房の子)に託し、5月26日の落城とともに討死を遂げたのである。