周防国大内氏の譜代重臣。内藤弘春の子。内藤弘矩の甥。通称は彦太郎。弾正忠・下野守。
大内義興・義隆の2代に仕え、文亀3年(1503)より長門守護代を務めた。義隆の代には軍評定衆となる。
永正3年(1506)、興隆寺二月会の大頭役を務める。
永正4年(1507)11月、前将軍の足利義稙を奉じて上洛する義興に従軍し、永正8年(1511)8月の船岡山の合戦にも参陣している。
天文9年(1540)9月、出雲国の尼子晴久が大内氏の麾下となっていた安芸国の国人領主・毛利元就の拠る吉田郡山城を攻めた際には、その救援軍の一翼を担って出陣し、毛利勢と協力して尼子勢を撃退した(郡山城の戦い)。天文11年(1542)には逆に大内氏が尼子氏の本国である出雲国への侵攻に乗り出すとこれにも従軍し、翌年3月には尼子氏の本城である月山富田城の菅谷口にて戦うが、尼子方の牛尾幸清・河副久盛らの軍勢に撃退されている(月山富田城の戦い)。
天文18年(1549)2月から5月にかけて毛利元就らが大内氏に招かれて周防国山口に滞在し、この間に元就の嫡男・毛利隆元に義隆の養女を娶わせることが取り決められているが(一説には天文17年の秋)、この義隆養女は興盛の娘であり、同年11月に興盛は隆元に、船岡山の合戦以来着用していたという鎧を贈っている。
しかし既にこの頃の大内氏家中においては重臣の陶晴賢が義隆への背反を企てており、興盛は従姉妹が義隆の母、娘が義隆の側室という血縁的にも近い家臣であったが、遅くとも天文19年(1550)8月までには興盛もこの企てに加担している。そして天文20年(1551)8月、ついに晴賢が挙兵に及ぶと、興盛も杉重矩らとともに陶方として山口に義隆を襲撃した(大内館の戦い)。
その後の事績は不詳であるが、天文23年(1554)5月に61歳で死去したという。