周防国大内氏の譜代重臣。通称は七郎。別称を重信。従五位下・伯耆守。大内義隆の時代には陶晴賢(周防守護代)・内藤興盛(長門守護代)・杉興運(筑前守護代)とともに主家を支え、重矩は豊前守護代を務めたとみられる。
天文3年(1534)4月、陶興房や佐田朝景らとともに豊後国速見郡の大村山近辺で大友氏の軍勢と戦い、吉弘氏直や寒田親将らを討ち取った(勢場ヶ原の合戦)。
天文7年(1538)、叙位。
天文11年(1542)1月から翌年5月にかけて、義隆に従って尼子氏の出雲国月山富田城攻めに従軍した。
大内家中では同じく譜代重臣の陶晴賢と不仲であったようだが、遅くとも天文18年(1549)には晴賢が大内義隆に対して叛意を募らせるようになると、これを義隆近臣の相良武任を通じて注進した。しかし義隆はこれを容れなかったため、重矩自身が讒言者と見なされることを危惧し、武任を讒言者に仕立てて同年の冬頃には晴賢と結び、天文20年(1551)8月に晴賢や内藤興盛らとともに決起して周防国山口に義隆を攻めて滅ぼした(大内館の戦い)。
しかし、のちに真相を知った晴賢と不和になって対立し、天文21年(1552)1月(天文22年9月とも)に所領の周防国佐波郡大崎に蟄居していたところを晴賢の兵に襲われ、長門国厚狭郡の長興寺で自殺した。