伊達家臣。伊達稙宗・晴宗・輝宗の3代に亘って宿老として仕えた重臣。常陸介。
天文5年(1536)、稙宗によって伊達家の分国法である『塵芥集』が制定されるが、宗時は子・親時らと共に家老評定人として連署している。
天文11年(1542)に稙宗が三男・時宗丸(のちの伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として越後国に送ろうとした際、宗時は桑折景長と共に晴宗を説いてこれを妨げさせたが、これがきっかけとなって伊達氏天文の乱と呼ばれる稙宗・晴宗父子の抗争が引き起こされた。宗時は晴宗陣営の参謀として奔走し、乱が終息したのちの天文22年(1553)1月には多大な所領や特権を認める判書を与えられている。同時に名取庄の惣成敗に任じられており、さらには二男・久仲を伊達氏累代の重臣である牧野家に入嗣させたことと相まって、伊達家臣団の中でも屈指の権勢を揮うようになった。
弘治元年(1555)の晴宗の左京大夫任官や輝宗の将軍・足利義輝からの一字拝領に奔走したのも宗時父子であり、永禄年間には北条氏康への使いも勤めるなど、外交面においてもその手腕を発揮している。
しかし永禄13年(=元亀元年:1570)4月、輝宗に叛意を企てて牧野久仲ら一族と共に久仲の居城・出羽国長井の小松城に籠もるが、追討を受けると支えきれずに相馬氏を頼って逃れた。自身の引き立てた遠藤基信が輝宗に重用されるようになったことで疎意が生じ、それが高じて輝宗の権力を奪取しようと画策するに至ったためという。
この後、晴宗や実元を介して帰参を請うが許されず、のちには相馬にも安住し難くなって会津に移り、同地で没したと伝わる。