通称は新右衛門。のち道標と号す。父は新右衛門親世(はじめ親俊と名乗る)。
蜷川氏は物部氏の後裔と伝えられ、文明年間以降は代々足利氏に仕え、政所代となって幕政に参与した家柄である。また、親長の数代前の親当(号して智薀)は連歌史に名を残すほど著名であり、親長もまた中世以来の有識故実、弓・馬術、書礼などの秘伝を伊勢・小笠原両氏より受けた文化人であったという。
親俊は足利義輝に仕えたが晩年に出羽国に下り、永禄12年(1569)に死去した。親長は父のあとを継いで義輝・義昭に仕えて丹波・河内等の所領を安堵されたが、天正元年(1573)に事実上室町幕府が崩壊すると、妻の縁故から長宗我部元親の招きによって土佐に寄食した。
岡豊城下の蓮如寺に居屋敷を与えられ、連歌の教授をした。また、京の事情に精通していたこともあって、中央政権と長宗我部氏のつなぎ役として、外交面においても尽力した。
関ヶ原の役後の長宗我部氏の領国没収に際し、浦戸一揆が起こったが、親長は子・親満と共に桑名吉成らと相談して一揆を平定した。
のち畿内に赴き徳川家康に謁見し、慶長7年(1602)には5百石を与えられて旗本となり、御伽衆として故実を講じるなどして仕えた。
慶長15年(1610)5月8日に没した。78歳(1534年生まれの77歳とも)。法名は如水軒峯室道標居士。子孫は代々江戸幕府に仕えた。