武田家臣。小幡虎盛の嫡男。通称は孫次郎・又兵衛。豊後守。
永禄4年(1561)6月に父が病没すると遺領を継ぐとともに、信濃国海津城副将を弟(叔父とも)の小幡光盛と交代して武田信玄の旗本組に加わり、騎馬3騎、足軽10人持の足軽大将となった。
永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回後の関東方面への侵攻では西上野の倉賀野城、武蔵国の松山城、上野国の箕輪城攻めにおいて、父にも勝る剛勇ぶりを発揮したという。
信玄は昌盛の資質を早くから見抜き、昌盛の妻こそは「鬼美濃」の名で知られる原虎胤の娘が相応しい、と昌盛が家督を継ぐ前に、信玄のお声掛かりによる縁組が行われている。
だが、父・虎盛が川中島の合戦という大合戦の直前に病死したのと同じように、昌盛もまた天正9年(1581)11月頃より発症し、天正10年(1582)3月の武田征伐には病床に臥す身となっていて参戦できなかった。3月3日に甲府の善光寺で武田勝頼に謁して暇乞いをし、その3日後で武田氏滅亡5日前の3月6日、享年49で没した。昌盛の病状は腹部が異常に腫れあがり、山梨県の風土病である日本住血吸虫症の最古の記録といわれる。
甲州流軍学の祖として著名な小幡景憲(勘兵衛)は、この昌盛の子である。