奥平信昌(おくだいら・のぶまさ) 1555〜1615

徳川家臣。奥平貞能の長子。母は牧野成種の娘。通称は九八郎。初名は定昌。美作守・従五位下。
元亀元年(1570)の姉川の合戦には父・貞能と共に徳川家康に属して出陣した。
元亀3年(1572)頃より武田氏に属したが、天正元年(1573)に父と共に再び家康に帰降した。
天正3年(1575)の長篠の合戦では、武田軍の大兵を迎えながらも長篠城を堅守し、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として送り、織田・徳川連合軍大勝の起因を作った。
翌年、新城城に移り、家康の娘・亀姫を室とした。
天正10年(1582)の武田征伐、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦に参陣し、とくに小牧・長久手の合戦においては、勇猛で知られた武将・森長可を破る功績を挙げている。
天正16年(1588)、従五位下・美作守に叙任。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍し、のちの徳川氏関東移封に際して上野国宮崎で3万石の領主となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役にも参戦し、同年の9月より京都所司代に就任し、翌慶長6年(1601)3月まで京都の制法を司った。この間、本願寺に潜伏していた安国寺恵瓊を捕えている。
同年2月、美濃国加納10万石に転封。
慶長20年(1615)3月14日、同地で没した。61歳。法号は泰雲道安久昌院。