(安国寺)恵瓊(あんこくじ・えけい) ?〜1600

臨済禅僧。毛利氏の外交僧として広く知られる。
大内義隆に滅ぼされた安芸守護・武田信重(光広?)の遺児と伝えられる。幼名は竹若丸。一任斎・恵瓊と号す。
天文10年(1541)の安芸武田氏滅亡に際して安芸安国寺に逃れ、天文22年(1553)に竺雲恵心の法弟となる。
永禄12年(1569)に安芸安国寺の住職となる。ついで、備後国鞆の安国寺住職も兼ねた。
天正7年(1579)に京都東福寺退耕庵主となり、慶長3年(1598)には東福寺第224世の住職となった。慶長5年(1600)、南禅寺住職の公帖を受ける。
師事した恵心が外交僧であったことから毛利輝元と深い交わりを結び、毛利氏に属する外交僧となった。
天正元年(1573)、将軍・足利義昭の命で、輝元が義昭と織田信長との和睦を斡旋したとき、上京して信長・羽柴秀吉と折衝したが、このとき信長・秀吉両名のその後の運命を予言したという。
天正10年(1582)、羽柴秀吉の備中高松城水攻めのとき、毛利氏と秀吉との仲介役を務め、独断で秀吉との講和を取りまとめた。それをきっかけとして秀吉と親交を深め、天正13年(1585)の四国征伐ののち伊予国和気郡に2万3千石を与えられ、僧のまま豊臣政権の大名に取り立てられた。慶長年間には6万石まで加増されている。
天正15年(1587)の九州征伐においては大友氏・島津氏らとの折衝にあたった。
文禄慶長の役に際しては従軍僧として渡海し、占領地の子供に日本語を教えるなどして、朝鮮半島の「日本化」を図った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では首謀者のひとりとして西軍に属し、9月15日の関ヶ原の合戦においては毛利勢の1隊として1千8百の兵を率いて参戦したが、東軍に通じていた吉川広家に牽制されたために兵は動かさなかった。
敗戦後は京に逃れたが捕えられ、同年10月1日、石田三成小西行長と共に京都六条河原で斬られた。生年は不明だが、享年63ともいわれる。
博学能弁で武事を好んだといわれるが、書籍の収集にも努め、茶の湯への関心も深かった。また不同院の金堂・鐘楼・山門、厳島の大経堂など、この時代を代表する豪壮華麗な建築物の新造や修復工事にも多く関与した。