大熊朝秀(おおくま・ともひで) ?〜1582

はじめ上杉、のち武田家臣。大熊政秀の子。備前守。越後国頸城郡箕冠城主。
父・政秀は越後守護上杉氏の公銭方を勤めており、その職務を引き継いで段銭などの収納にあたった。
天文年間(1532〜1555)の後期に上杉謙信が実質的な越後国主となると謙信の側近として国政に参画していたが、甲斐国の武田信玄に通じ、謙信の出家騒動中の弘治2年(1556)に謀叛を起こした。この謀叛を起こした理由であるが、長尾氏を出自とする謙信と結びつきの強い古志(栖吉)長尾氏や上田長尾氏をはじめとする長尾氏系列の被官が台頭し、越後守護上杉氏系列の被官であった朝秀の立場が揺らいだためと目されている。
信玄との密約を恃みに謀叛に及んだ朝秀は箕冠城を棄てて越中国に退いて武田軍の来援を待ったが、この報を受けて出家を取りやめた謙信の軍勢と8月23日に越後国頸城郡の駒返で戦って敗れた。
その後は信玄を頼って甲斐国に逃れ、山県昌景の同心衆を経て騎馬30騎、足軽75人持の足軽大将衆となり、元亀2年(1571)には遠江国小山城代を務めた。その忠勤ぶりは武田氏の譜代家臣以上であったという。
信玄の没後はその後継・武田勝頼に仕え、天正10年(1582)3月の田野の合戦(武田征伐)にて討死した。