大崎満持(おおさき・みつもち) ?〜?

陸奥国斯波大崎氏の第4代当主。奥州探題・大崎詮持の子。左京大夫・刑部大輔。奥州探題。陸奥国志田郡師山城主。
応永2年(1395)の陸奥国田村庄司の乱に際しては父・詮持の名代として出陣し、麾下の諸将に所領の安堵・官途の推挙・感状の授与などを行っており、奥州探題としての職権を代行している。
斯波大崎氏は斯波家兼が奥州の計略を担う奥州管領として文和3:正平9年(1354)に派遣されてより、その職を世襲してきたが、満持の父である詮持の治世下の明徳2:元中8年(1391)に奥州が鎌倉府の管轄下に置かれることになり、応永6年(1399)に鎌倉公方の足利満兼が弟の満直満貞をそれぞれ安積郡篠川、岩瀬郡稲村に派遣して陸奥国の直接支配に乗り出したことから関係が悪化し、翌応永7年(1400)に詮持は伊達(大膳大夫)政宗らとともに鎌倉府に対して挙兵を計画したが、事は成らずに鎮圧されて自害した。
このとき満持は国許にいたために討伐を免れたが、詮持の自害を知ると伊達氏とともに防備を固め、併せて室町幕府将軍・足利義満と懇意にしていた伊達氏・懸田氏・藤井(上遠野)氏といった反鎌倉府の領主らとの連携を密にし、鎌倉府を牽制している。
この鎌倉府方と反鎌倉府方諸将の抗争については詳らかでないが、同年中に沈静化したようである。
しかし応永9年(1402)には再び鎌倉府方から伊達氏とともに討伐の対象とされており、同年5月には足利満兼の命を受けた上杉禅秀率いる討伐軍が鎌倉を発向し、同年9月に伊達政宗が降参して会津に逃れたというが、政宗は同年11月には戻って従来の活動をしていることなどから見ても、大崎氏ともども処分などは受けなかったようである。
満持は生没年ともに不明であり、応永14年(1407)4月に発給した南部二郎宛の官途推挙状が満持の発給文書の終見である。