相良義滋(さがら・よししげ) 1491〜1546

相良長毎の庶長子。相良長隆(瑞堅)・相良長祇の兄。通称を六郎。初名を長為、そののちに長唯と名乗る。従五位下・近江守・宮内大輔。
大永4年(1529)、相良長定が相良氏当主の相良長祇を肥後国人吉城から逐って家督を奪ったのち、弟・長隆が長定を破って人吉より逐ったが、家臣の推挙を受けてこの長隆を討ち、相良宗家の家督と肥後国球磨・八代・葦北3郡の所領を相続した。このとき従兄弟にあたる上村頼興の支援を受けたが、その条件が頼興の子・晴広を後嗣とすることが条件だったという。
享禄2年(1529)から翌年にかけて犬童氏を粛清し、享禄4年(1531)には弟・長祇の仇敵である長定を誘殺。
享禄3年(1530)9月、菱刈氏と連携して牛山城を落とす。
天文3年(1534)に人吉から八代に移り、古麓城に隣接する鷹ヶ峰城を築き、ここを本拠とした。
対外政策としては、没落した肥後守護・菊池義武や堅志田の阿蘇惟前父子を後援、名和氏とも和解することで菊池(阿蘇)氏・名和氏と相互の政治的結びつきを強め、肥後国内の政情を安定化させることに成功している。
天文14年(1545)、相良(多良木)治頼の叛乱を鎮定(耳取原の合戦)。
また、この年の12月、勅使・小槻伊治が八代に来着、従五位下・宮内大輔に叙任された。このときに将軍・足利義晴から「義」の字を与えられ、名をそれまでの長唯から義滋へと改めた。
天文15年(1546)8月25日死去。58歳。法名は蓮乗院了徳永幸。
この死に先立つ5月に制定した21ヶ条の式目は遺言状ともいうべき内容で、智・仁・勇・義・信を背景に、君と臣の主従関係を領国経営の精神的支柱に置き、儒学・兵学・文学など学問の必要性を説いたものである。