美濃守護代・斎藤利永の子。実名は利国。斎藤利藤の弟。斎藤妙椿の甥。通称は新四郎。右馬丞。持是院妙純と称す。美濃国加納城主。
応仁の乱最中の文明5年(1473)10月、斎藤妙椿が伊勢国の西軍方勢力であった長野藤継の支援を決めた際、先遣軍の主将として出陣した。
時期は不詳だが妙椿の養子となり、文明11年(1479)2月に妙椿から家督を譲られる。
文明12年(1480)2月に妙椿が没すると、5月には兄の利藤と所領をめぐっての相論が起こり、8月には武力衝突するに至ると、11月には利藤を近江国の六角高頼のもとへ逐い、さらに近江国にも石丸利光を主将として派兵している。
この抗争で妙純は美濃守護の土岐成頼を、利藤は幕府を後ろ楯としたようだが、文明13年(1481)7月末までには妙純・成頼は幕府と講和したようである。しかし利藤との和解は未だ成らなかったようで、一応の実現を見るのは長享元年(1487)の夏頃である。同年9月からの鈎の陣には参陣していない。
明応3年(1494)12月、先の利藤との抗争に活躍した石丸利光が妙純を暗殺しようとしていたことが露顕する。このときは成頼の口添えもあって講和したが、利光は妙純に反感を抱く利藤に接近し、翌明応4年(1495)6月に至って利藤末子の毘沙童と成頼四男の元頼を、居城の船田城に擁して公然と対抗する意を示した(船田合戦)。この頃の土岐氏内部では土岐成頼の後継(次期家督)をめぐって、既定路線であった嫡男の政房を推す陣営と元頼を推す陣営とに分かれて反目があり、成頼も元頼派であった。妙純は政房派であったため、石丸利光と斎藤利藤はこれに対抗して元頼派に与したのである。
この船田合戦は明応5年(1496)5月末、圧迫を受けた石丸利光が自刃したことによって決着する。また妙純は、この船田合戦の最中ながらも尾張国の織田氏の内訌にも介入し、織田寛広(岩倉織田氏)方に援軍を送っている。
またこの船田合戦には六角高頼も土岐成頼・元頼派として介入しているが、六角氏もまた京極氏との抗争を抱えており、京極氏は妙純に与していた。このため妙純は船田合戦落着後の明応5年9月に京極氏の求めに応じて出陣し、和議が成って撤兵する際の12月7日、蜂起した郷民等の襲撃を受け、同族衆とともに討死した。