美濃守護代・斎藤氏の家臣。丹波守。美濃小守護代。美濃国船田城主。
応仁の乱に際して、美濃守護・土岐成頼の執権職に在った斎藤妙椿に従って戦功を挙げた。
文明12年(1480)2月に斎藤妙椿が没したのちに斎藤利藤と斎藤妙純(利国)の対立が表面化すると利光は妙純に与し、11月の合戦で勝利して利藤を近江国へ逐い、さらに近江国へと進軍した。この功により、翌文明13年(1481)2月に妙純から斎藤の名字を与えられ、小守護代の地位に就いた。
これによって石丸氏の威勢は増大し、美濃守護家の執権職をも望むようになったと見え、明応3年(1494)12月には妙純の殺害を企図。しかしこれは失敗し、まもなく土岐成頼の口添えを得て妙純と和睦するが、この一件が船田合戦の発端となった。
この頃の土岐氏の内部では成頼の次代後継者の地位をめぐって嫡男の政房派と四男の元頼派の反目が潜在しており、成頼も元頼に家督を譲りたい意向であった。利光はこれに乗じて明応4年(1495)6月に元頼と斎藤利藤の孫・毘沙童を自城の船田城に迎えて擁立し、政房方であった妙純に敵対したが、劣勢を強いられて7月には六角高頼を頼って近江国に逃れた。
明応5年(1496)4月に至って幕府管領の細川政元や尾張国の織田寛村らと意を通じ、伊勢・尾張国を経由して美濃国に入国し、5月には土岐成頼が居城としていた城田寺城に入城した。
しかし美濃国の国人領主や近江国の京極氏、越前国の朝倉貞景らの援軍を得た妙純方の包囲を受けると、観念して子の利高らとともに5月30日に自刃した。