土岐成頼(とき・しげより) 1442~1497

美濃守護・土岐持益の養子。名は「なりより」とも読む。実父については一色義遠とする説、土岐一族の饗庭元明とする説、土岐光俊とする説などがあり、不詳である。
持益には持兼という実子があったが、康正2年(1456)に持兼が早世したため成頼が養子に迎えられた。
寛正6年(1465)(一説には康正2年:1456)に家督と美濃守護職を継ぐ。
文正2年(=応仁元年:1467)より始まった応仁の乱には、有力被官の斎藤妙椿とともに山名宗全方(西軍)に加わった。文明9年(1477)11月に応仁の乱が終息すると、足利義視義稙(当時の名乗りは義材)父子の美濃国下向を迎え入れており、翌年に義視父子が兄で幕府将軍の足利義政から赦免されるにあたり、成頼も赦されている。
長享元年(1487)9月に近江国の六角氏が幕府から討伐を受ける(鈎の陣)ことになると、当時は成頼の二男が六角氏の養子になっているなど六角氏と友好関係にあったことから、連座を警戒して参陣せず「ほうみ」という地へ退去している。
明応4年(1495)までに成頼の後継者の地位をめぐって子の土岐政房・元頼兄弟に反目が生じ、これに美濃守護代・斎藤妙純と小守護代・石丸利光の闘争が絡んだことで明応4年3月に船田合戦が勃発する。成頼は元頼派に与したが、政房を擁した妙純に敗れたため、隠居を余儀なくされた。
明応6年(1497)4月3日に死去し、瑞龍寺に葬られた。享年56。法名は瑞龍寺殿国文宗安大居士。