佐竹義篤(さたけ・よしあつ) 1507〜1545

常陸国佐竹氏第16代(9代の佐竹義篤は同名異人)。佐竹義舜の嫡男。母は岩城常隆の娘。幼名は徳寿丸。従四位下・左兵衛少将・右馬頭・大膳大夫。常陸国太田城主。
永正14年(1517)に死没した父・義舜のあとを受けて佐竹氏の家督を相続したが、若年であったため、叔父・佐竹義信の後見を受けた。
享禄2年(1529)10月、実弟で宇留野氏の名跡を継いでいた宇留野義元が佐竹氏重臣・小貫俊通の拠る部垂(へだれ)城を奪取して部垂氏を称し、佐竹宗家に反旗を翻した。この義元はのちに佐竹一族の小場義実や高久義貞らの支援を取り付けて抗したため、佐竹氏を二分する内乱となる(部垂の乱)。
この乱において天文4年(1535)12月には高久城、7年(1538)3月には口尾瀬、8年(1539)3月には部垂前小屋城と、しばしば戦って部垂勢の勢力を削ぎ、天文9年(1540)3月には義元の部垂城を攻めてこれを討ち、12年に亘る分裂抗争を終息させた。
この間の天文8年には那須政資・高資父子の分裂抗争に介入し、政資を支援して高資の居城・下野国烏山城を攻めている。また、部垂の乱終息後の天文10年(1541)の春には父の代からの北進政策を再開して白川氏の支配下にあった陸奥国南郷地方への進出を企て、天文11年(1542)の伊達氏天文の乱に際しては伊達晴宗に与し、岩城重隆・江戸忠通らと連携して参陣するなどして、北関東から陸奥国南域にかけて版図の拡大を図っている。
天文14年(1545)4月9日に没す。享年39。法名は大臨寺院殿月光渓心大禅定門。