江戸忠通(えど・ただみち) 1507〜1564

常陸国江戸氏。江戸通泰の子。通称は彦五郎。妻は佐竹義舜の娘。但馬守。
天文4年(1535)、父・通泰の死没を受けて家督を相続。
天文11年(1542)より始まった伊達氏天文の乱に際しては岩城重隆・佐竹義篤(16代)らと共に伊達晴宗陣営に与し、天文12年(1543)3月には晴宗からの要請を受けて岩城・佐竹勢と連携して楢葉口へと出陣している。
常陸国江戸氏は佐竹氏重臣の家格でありながらも度々敵対してきた経緯があり、忠通の父である通泰が永正7年(1510)12月に佐竹義舜より『一家同位』の起請文を受けて以来は佐竹氏と協調する関係にあったが、天文14年(1545)に佐竹氏当主であった義篤が没してその嫡男・義昭がその家督を継承した頃より佐竹氏との関係は悪化するに至った。
天文16年(1547)頃より武力衝突を起こし、天文17年(1548)8月には佐竹氏と緊張関係にあった白川晴綱と盟約を結んで対抗したが、天文20年(1551)6月に和議を結んで佐竹氏に臣従した。
永禄7年(1564)6月に没した。58歳。