里見義頼(さとみ・よしより) ?〜1587

里見義堯の四男。里見義弘の弟。通称は太郎。左馬頭・刑部大輔・安房守。安房国岡本城主。
男児のなかった兄・義弘の養子となって次期家督継承者と目されていたが、のち義弘に実子・梅王丸が生まれると安房一国と下総国の所領の半分を義頼に、上総国を梅王丸に譲ろうとしたため義弘との関係が悪化した。
天正5年(1577)に里見氏と北条氏の間に和平が結ばれた際、すでに里見氏重臣・正木時茂(大膳亮)の娘を妻としていたが、北条氏政の娘を正室として娶って縁戚となる。
天正6年(1578)5月に義弘が没したのちには遺領と家督をめぐって梅王丸との対立が顕著となり、分裂抗争が起こった。この抗争において天正7年(1579)に上総国に出兵して久留里・千本・百首などの城を陥落させ、翌年には居城としていた佐貫城を落として梅王丸を捕えて出家させ、実力で家督を継承した。
天正9年(1581)9月末、前年5月頃に謀叛を企てて抵抗していた正木憲時(正木時茂の養子)を上総国大多喜城に攻め滅ぼしたが、武名の高い正木氏の家名を惜しんで二男・弥九郎に正木家を継がせ、正木時茂(または時堯)と名乗らせた。
天正15年(1587)10月23日に病死した。法名は大勢院殿勝岩泰英居士。
義頼の死後である天正16年(1588)に発給された義頼の朱印が押捺された文書が現存しているが、これは義頼のあとを継いだ里見義康が義頼の朱印を借用して発給したものと見られている。