里見義頼の嫡男。母は正木時茂(大膳亮)の娘。幼名は梅鶴丸。従四位下・左馬頭・安房守・侍従。羽柴安房侍従とも称す。はじめ安房国岡本城主、のちに館山城主。
天正15年(1587)、父・義頼の死を受けて家督を相続し、岡本城主となる。
天正18年(1590)4月に羽柴秀吉から小田原征伐への参陣を命じられたが、独自に北条氏を攻めて三浦半島に出兵していたため小田原征伐には遅れて参陣した。その遅参を咎められて全所領を没収されそうになったが、徳川家康を通じての謝罪が認められて安房一国のみの領有が許され、上総国は没収された。以後、徳川氏に属して中央政権に帰順することになる。
この頃に一支城であった安房国館山城を拡大修築して移転、ここを本拠と定めて城下町の整備に意を注いだ。慶長6年(1601)には城下町に対して5ヶ条の法度を発布するなどして商業の保護に努めている。
天正19年(1591)、従四位下・侍従に叙任され、羽柴の氏と豊臣の姓を与えられた。
文禄の役には徳川家康の軍勢に属して肥前国名護屋城に駐屯し、文禄2年(1593)11月に帰国。慶長の役にも家康に属して京都まで出陣している。
帰国後の慶長2年(1597)の秋には領内において増田長盛の指揮による太閤検地を実施、その算定結果を用いて家臣団の知行再編を行った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には東軍に属し、徳川秀忠の軍勢に属して宇都宮に出陣、のちに結城秀康の軍勢に属して陸奥国会津の上杉景勝を牽制する役割を果たした。これらの功で役後に常陸国鹿島郡に3万石を加増され、12万石の領主となる。
慶長8年(1603)11月16日に病死した。31歳。法名は龍潜院殿傑山芳英大居士。