越中国新川郡松倉城に拠った国人領主。
永禄3年(1560)、同郡で競合する富山城主の神保長職が攻勢を強めてくると、3月に越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)の支援を得て撃退した。
しかし康胤は永禄11年(1568)に至り、一向一揆を主導する本願寺や、本願寺と提携して上杉謙信と敵対する武田信玄等からの働きかけを受け、これと結んで上杉方から離反した。すると、武田氏や本願寺、一向一揆と提携していた神保長職が上杉氏と通じて一向一揆と決裂したため、越中国は複雑な様相を呈することとなった。
翌永禄12年(1569)8月には侵攻した上杉軍によって松倉城や金山城などの拠点を落とされた。
元亀3年(1572)5月、武田氏からの要請を受けた本願寺が加賀国の一向一揆を越中国に攻め入らせているが(日宮城の戦い)、この戦いに康胤が関わっていたかは不詳である。
この一揆勢が日宮城を陥落させると、8月には劣勢を覆すために謙信自身が出馬して富山城に拠った一揆と対峙したが、康胤はこの一揆とともに抗戦したという。
9月になって上杉軍に江馬輝盛らが率いる増援が到着したのちも両陣営のにらみ合いは続けられ、翌元亀4年(=天正元年:1573)1月に至り、康胤は上杉方へ転じて赦免を受けた。
その後の康胤の動向は不詳であるが、一説には天正4年(1576)3月、拠っていた越中国蓮沼城を謙信に攻められ、自刃したという。しかしこの時期に謙信が越中国に出馬したという記録は伝わらない。