越中国の国人領主。神保慶宗の子。別称を良春か。道号は宗昌。
永正17年(1520)の父・慶宗の自害後に衰退した神保氏の勢力を再び興し、越中国新川郡の西部に富山城を築く。
慶宗の時代の越中守護は畠山尚順であり、慶宗はその守護代のひとりであったというが、この尚順が大永2年(1522)に没して以降の越中守護は不詳であり、長職が守護代であったかも不明である。
長職は同じく越中守護代家の流れを汲む新川郡松倉城主の椎名康胤と抗争を繰り返し、永禄3年(1560)3月、椎名氏を支援して越中国に出陣してきた上杉謙信の圧迫を受けると、同月晦日に富山城を放棄して砺波郡の増山城に逃れた。
永禄5年(1562)7月にも蜂起したが、来攻した上杉勢によって再び増山城に追い込まれ、10月頃に至って能登守護・畠山義綱の仲介を得て謙信と和睦した。
永禄8年(1565)、長職は上杉謙信と敵対する武田信玄および本願寺・一向一揆と結んで謙信を牽制したが、永禄11年(1568)3月には射水郡の放生津まで攻め込まれた。しかし同月、信玄の調略が功を奏して上杉家臣の本荘繁長が越後国村上で謀叛を起こしたため、謙信は間もなく撤退している。
さらに信玄は7月に越中国の本願寺一家衆寺院である勝興寺に使いを送って加賀・越中国の一向一揆を越後国に侵攻させ、それと併せて8月には松倉城主の椎名康胤を自陣営に寝返らせているが、これを受けて長職は上杉方に転じた。この突然の方針転換の理由は不詳であるが、この頃には子の神保長住と対立していたことが知られている。
元亀2年(1571)3月に上杉謙信は越中国に侵攻しているが、これは長職の要請によるものとされる。
またこの年に長職は入道して宗昌と称したとされるが、以降の動静は不詳である。