宗義盛(そう・よしもり) 1476~1520

対馬守護・宗材盛(盛貞)の長男。宗貞国の孫。通称は彦七。初名は盛順。讃岐守。対馬守護。
父・材盛は持病のために政務の執行が困難だったようで永正元年(1504)11月には夫人が代行していたようだが、永正3年(1506)11月までの間には材盛は隠退して盛順(義盛)が家督に就いたと思われる。なお、材盛発給文書の終見は明応10年(=文亀元年:1501)、盛順発給文書の初見は延徳4年(=明応元年:1492)である。
この家督継承の頃、かつて足利義澄細川政元に将軍職を更迭された足利義尹(義稙)大内義興の支援を得て上洛を目論んでおり、これを警戒した義澄陣営から大内氏討伐を命じられているが、祖父・貞国の代からの親大内氏路線を維持し、これには応じずに静観した。
この静観したことを功績としてのことか、将軍に返り咲いた足利義尹から永正7年(1510)の夏頃に「義」の字を与えられ、名を義盛に改めた。同年12月に請けた御内書の宛名が「宗讃岐守」となっており、讃岐守への任官も同時期であろう。また、屋形号をも許されている。
しかし同年4月、朝鮮半島南部で恒居倭(朝鮮国に居留する日本人)が起こした反乱に同調して宗氏も出兵に及んだため、生業としていた交易の最大手であった朝鮮国と断絶することになる(三浦の乱)。その後に日本国王使を引き入れての講和交渉が行われ、永正9年(1512)8月に壬申約定が結ばれて通交が再開されることになったが、その権益が大きく制限されたために反発するも、朝鮮側の妥協を引き出すことができずに永正11年(1514)7月に至ってこれを容れている。
永正17年(1520)12月6日死去。享年45。義盛の死因は不明で、次代の宗氏家督に就いた宗盛長は朝鮮国に義盛を討伐したと伝えているが、これが事実なのか、三浦の乱の首謀者であった義盛を討ったということで壬申約定の緩和を引き出すための方便であったのかは不詳である。